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連載小説
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六 聖書 ルカによる福音書 一:二六―三八
  御使(みつかい)、処女(おとめ)の許(もと)にきたりて言う、
  「めでたし、恵まるる者よ、主なんじと共に在(いま)せり」


 部屋にもどり、布団をかぶり、寝てしまおうと思ったのに、眠れない。
 じぶんの体を苦しめているのが、風邪などでないことに、気づいてしまった。
 この、熱。耐えきれないほどの、この重くるしさ。
 血をもとめて、あえいでいる。

 外では、風が鳴っている。吹雪になりそうな雪と風が、ガラス一枚へだてたむこうで舞っている。
 おなじように、流れている。人間の、その体の内側に、皮一枚のむこうがわに、じぶんのもとめているそれが――赤い、血が、流れている。
 それをじぶんは求めている。それなら。
 じぶんの内側で、皮一枚のむこうがわに。
 いったい、なにが流れているのだろう。
 なにが。

 「遅い」
 そのとき、耳もとで声がした。
 えっと思うまもなく、
 ぴし、
 と、わずかな音をたてて、窓ガラスにひびが入った。
 風の強さに負けたのだろうか。その瞬間。
 ことり、と、つっかい棒にしていた定規が、まるでそこにはない手がゆっくりと持ちあげてわきによけたように、その位置をかえた。

 そうして。
 窓が、わずかに開いた。

 窓は、かたかたとゆれ、それから、ゆっくりと、もとどおり、
 閉まった。

 みぎわは、一部始終を、見ていた。
 定規が、もとどおり、窓枠にそえられるのも。

 それから――そうして。
 目のまえに、背の高い、それが。
 その人物が、立っているのを。

 「遅い」
 羽根木翠は、くりかえす。

 「――」
 なにが、とみぎわは言いかえそうとして、声が出なくなっていることを思いだす。
 目の前の、髪の長い、黒い目の。
 翠がいることに、まるでおどろいていないじぶんが、かえってふしぎだった。
 いま真琴かだれかが入ってきたら、おれが女の子連れこんだって思われるのかな。
 そんな、どうでもいいようなことを考えているじぶんが、なぜかおかしくて、こんなわけのわからない状況なのに、笑いがこみあげてくるようで、みぎわはじぶんの感情をコントロールできなくなっている。
 それにも気づいていた。

 「行くぞ」
 いきなり、翠がみぎわの布団をはいだ。そうしてみぎわの腕をつかむ。
 「幹(みき)が待っている」

*** *** ***

 そのあとのことは、よく覚えていない。
 翠に、抱きかかえられたような気もするが、その腕がおどろくほど細かったような気もするが、どうやらじぶんは、すぐに気をうしなってしまったらしい。

 とにかく、つぎに目が覚めたとき、みぎわと翠は礼拝堂にいた。
 うす暗い礼拝堂は、パジャマ姿ではすずしく、みぎわは知らずわが身を抱くようにしていた。

 「幹」
 翠がオルガンのまえにいた人物に声をかける。
 振りむいたのは、あの、水谷とかいう男性だった。にっこり笑って、

 「待ちかねたよ」
 と、言った。

 なんだか、なにもかもが芝居じみているというか、なぜじぶんはおとなしくベッドで寝ていないで、こんなところでこんなことをしているのだろうとか、なにもかもが、説明のつかない薄明のなかにあるようだった。
 頭が痛い。重い。
 「つらいよね」
 幹がふわりと言う。翠がぼそりと、
 「生きてゆけなければ死ぬだけだ。漫然とひからびてゆく馬鹿はいない」
 「まあ、彼氏いままでひとりだったんだし、ひとりで生きてきていたんだからしょうがないでしょう、約束ごとが多少わからなくても」
 「本能がこわれていればそもそも生きられるものではない」
 「習熟もあるでしょう」
 「最近の餓鬼は脆弱だな。甘えている。教えてもらわないと餌も得られない」
 「まあまあ。とにかく、ほうっておいたら彼氏、窒息してしまう。翠さん、おさえててくれますか」

 その声と同時にうしろから腕がのびてきて、あっという間もなくはがいじめにされる。
 「‥‥!」
 ふりほどこうにも、細い腕がみぎわの体にぴったりと巻きつけられてきて、そう力をこめているようでもないのにまったく動けない。頭ひとつ背が高いとはいえ女の力に負けるなんて。そんな思いをこめたあらがいにも、まるきり頓着するふうもなく、翠はそのままみぎわの両腕をうしろでひとまとめにかかえてしまい、空いたほうの手で腹を押さえこんでくる。

 「だいじょうぶ、いたくないからね。ちょっとだけだから」
 幹の、あかんぼうに言いきかせるみたいな口調に、頭に血がのぼってくる。離せ、と叫ぼうとしても、かわききった喉からはひゅうひゅうと空気がもれるばかりだ。ますますいらだちをつのらせて、みぎわは目のまえの顔をにらみつける。
 「そのまま口、あけていてくれれば五分ですむから」

 幹が近づいてくる、その手に握られているのは‥‥カッターナイフ?
 「あばれちゃだめだって、よけい傷、ついちゃうよ」
 その声に呼応するように、翠がうしろからみぎわの首をつかんで、ぐっと正面をむいたかたちに固定する。もがくみぎわの足のうえに、ふみつけるというよりはおさえこむように翠の足がのせられる。それだけのことで、みぎわの動きは完全に封じられる。
 「ああ、顔あんまりあげさせないでください。血は飲んでしまわないほうがいい」
 幹がみぎわのあごに手をかけ、
 「床よごさないようにしないと。こんなものしかないけど」
 と、つぶやきながら、ガラスのコップを取りだして、かちんと爪ではじいてみる。ま、いいかとコップをかたわらに置いて、片方の指をみぎわの口につっこんで歯から歯茎をなであげる、そのなまぬるい指の感触に鳥肌がたつ。
 「やっぱり生えそこなって‥‥っと」
 口のなかへ指をいれられて、思いきりかみついたのに、幹はわずかに顔をしかめただけで、こたえたようすもない。

 「すこしのがまんだから」
 なにがどうがまんなのだか、言いかえしたいのに声が出ない。そんなみぎわににっこりと笑ってみせて、頭ごしに翠に、
 「なにかロープみたいなもの、あれば」
 「?」
 「舌かまれてもこまるでしょう――あ、これ、借ります」
 みぎわの頭のうえでなにか、しゅる、と音がして、
 「いけるかな」
 つぶやく幹の手に、さっきまで翠の衿もとにあったタイが握られている。
 胸ポケットからペンを取りだしてタイをまきつけ、口をあけさせてそれを横にくわえさせる。そうしてタイのはしをうしろにわたしてしばり、しゃがみこんで、かるくうつむかせたみぎわを下から見あげるかたちで、幹はカッターの刃を二センチほど出す。にらみつけるみぎわに、のんびりした口調で言う。
 「それ万年筆だからね。かみつぶしたらインクで顔がよごれるよ」
 上くちびるを持ちあげ、歯をむきださせる。犬歯の生えぎわを指で押して、コップをあてがう。もういちど、たしかめるように歯茎をなぞる。
 「これだけ伸びてたら、うずいてるんじゃない。熱もってる」
 育ちぞこないはいろいろとたいへんだよね、とカッターの刃をあてて、そして。

 「――!」
 ぐっと、ひといきに上へえぐりこんだ。
 ざく、という音を、耳でなく骨で聞いた気がする。ぼとぼとと落ちる血を、唾液とまじりあったそれが幹の手を汚すのを、目でなく流れる熱で見た気がする。ぐらぐらする頭を、くずれそうになる体を、みぎわはなんとか翠の腕にたよらずじぶんの力でささえようとするが、それもかなわなくなってくる。ひざがふるえてくる。痛みより混乱で。
 血の匂い。
 なぜ、こんなことをされなけりゃならない?
 しかも、それだけでは終わらなかった。

 「あと一本。――動きなさんなって、手もと狂うでしょ」

*** *** ***

 「よくがまんしたね。えらかった」

 頭をなでられている。おそらくは、なま乾きの血がまだついている幹の手で。
 「ちょっとのあいだ痛いだろうけど、すぐ治まるから」
 痛いというより、熱かった。血が。赤くて。舌に感じる塩からい味と、それ以外の味と。
 したたり落ちたぶんはコップでうけたが、みぎわのパジャマにも、幹の上着にも、飛びちった血のしみがついてしまった。
 どこもかしこもなまぐさくて、吐き気がしてくる。

 「もう血は止まってるよ」
 さるぐつわを解きながら幹が言うのへ、答える気力もない。そんなみぎわを見ながら、これだめにしてしまいましたけど、あとで弁償しますね、と笑って、血まみれのタイをまるめてポケットにつっこむ。
 なんでもないことのように。なにかにひっかけて、シャツにかぎ裂きをつくった子どものことを話すように。

 くちびるの端が、しびれている。ペンをかみしめた奥歯がにぶく痛んでいる。それより、なぜじぶんがこんなあつかいを受けなければいけないのか、それがわからない。

 「これ」
 花見酒だけど、と幹が翠にコップを差しだす。
 肩をすくめて翠がコップを受けとる。そうして。
 半分ほども入っていたのを、ぐい、と飲みほした。

 そのとき。
 なにかが。みぎわを、とらえた。

 「――ぐ、っ」
 吐き気。さっきよりもっと。
 血を、飲みほす、なんて。

 「あ、ひどい反応」
 おどけたようすで幹が言う。翠がぼそりと、
 「吐き気‥‥だけじゃないはずだけど」
 と、赤い色にぬれたくちびるを舌でなめる。その、赤い舌――。

 ――え?
 ぞく、と体がふるえる。
 なにか、なにか説明のつかないざわめきが、体の内側に。

 「それでこそ健康な十六歳」
 「‥‥」
 ふざけるな、と言いたいのに声が出ない。体が。じぶんの思いとまったく関係のないところで――
 がくん、とひざを折ってうずくまってしまう。手がさしのべられてくるのを、ふりはらいたいのにその力も出ない。

 「じゃつぎはぼくの番」
 幹が言う。なにが?
 「もうちょっとふんばって。ほら」

 腕をつかんで引きずりあげ椅子に座らせて、幹がみぎわの正面に立つ。汗みずくになっているみぎわをなぐさめるように、ひたいにはりついている髪をうしろにながして、腕を椅子の背にのせて、おおいかぶさってくるのを、みぎわはぼんやりと見あげる。このままこの化物たちに食われるのかな、と考える。
 くすり、と翠がほほえむ。はじめて見た、翠の笑み。
 「幹は化物じゃない」
 なんかさっきから、言ってもいないことをこのひとに見ぬかれているような‥‥やっぱりこいつらおかしい‥‥。

 幹がみぎわの頭のうえで、衿もとのボタンに手をかける。上から三つ、はずす。
 はだけたシャツからのぞいた喉の、耳の下から鎖骨にかけて、ななめに五センチほどの傷が走っている。まだあたらしいのか、かわいた血のこびりついている傷口を、幹は細い指でそっとふれる。
 「治る間がないよね、まったく」
 そこにカッターの刃をあてる。まだみぎわの血に濡れているそれを。

 「じゃ、いきますか」
 そう言って、すい、と刃を引く。血が飛ばないていどにゆっくり、しずかに。
 赤い傷口から、赤い血の玉がもりあがり、やがて、つっと肌をつたって――。
 目がはなせない。
 幹が、カッターをふと見やる。血でぬめっているそれを、歯でくわえて、くっと力をこめ、ぱきりと折る。はずみで幹のくちびるがすこし、切れる。それにはかまわずあたらしい刃を出して、もういちど、刃先で赤い血の流れている首すじを、突く。
 ぷつ、と肉を切る音が聞こえたような気がする。
 びくりとみぎわが後ずさろうとするのをおしとどめて、
 「こらこら、だれのためだと思ってんの」
 じぶんの口から刃を取って開いた傷口に指をすべらせて、指先で血をすくい、それをみぎわのほおにこすりつける。錆の匂い。むっとする。みぎわはたまらなくなって、口をおさえて体をまげる。吐く。
 「吐かない」
 翠が言う。だめだ、吐く。気持ちわるい。
 「悪くない」
 こわい。
 「嘘」
 血が。血だけが、流れて止まらない。体が。

 「うずいてる、よね」

 幹の声を聞いたそのとき、ふいになにか、なにかおそろしい力がみぎわをつき動かし、目のまえの体に。つかみかかる。これは――これは。
 「――!」

 そのまま、みぎわは幹の首にむしゃぶりつく。
11/07/14 00:39更新 / blueblack
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