七 賛美歌 二篇 五二番
われらはきたりぬ はるけき国より
星にみちびかれ 野山こえて
ああ 奇しくかがやく 星の光よ、
われらをみちびけ み子のみもとに
「――おちついた?」
ぐったりしているみぎわに、幹が声をかける。
いくらか顔が青ざめて見えるのは気のせいだけではないだろう。
「ま、ちゃんと牙つかえてよかったってことで」
首をなでながら幹が言って、みぎわは思いだしてしまった。幹の喉もとにすがりついて血をすすりこみ、そのうちに、じぶんの歯が――牙が幹の肉にめりこんだその感触を。
頭をかかえてしまう。
「はじめてのご感想は」
「――う」
うめいて、声が出ることにおどろく。
「栄養補給したから」
こともなげに翠が言う。
「なん‥‥なんですかいまのは」
「栄養補給」
「授乳、かな、むしろ。血がたりなくなってみぎわくん、声出なくなってたでしょ」
「って‥‥」
「吸血鬼だろう」
「翠さん」
説明にならないことばを投げてくる翠を、幹はにが笑いをうかべてさえぎる。みぎわに向きなおって、笑ってみせる。
「あのね。みぎわくん吸血鬼でしょ」
「――だれ、が」
「無自覚馬鹿」
翠が横から口をはさむ。まあまあとおさえようとする幹を無視して、じぶんのくちびるをもちあげ、ぐいと歯をむきだす。その、犬歯。その――
「おまえのといっしょ」
「鏡があればね。みぎわくんもじぶんのこと見られるんだけど」
鏡、なんて必要じゃなかった。じぶんの舌がふれる、いつもとちがう感覚に、とっくにみぎわは気づいていた。さっき幹に裂かれた肉から生えている、犬歯のあるべきところに、下唇を傷つけるほどに伸びきって、とがっている、それは翠のものとおなじかたちをしているのだろう。
その、牙。ほかの歯の二倍ほどの長さのそれは毒蛇の牙のように、細くするどい。鏡を見なくても。鏡、を。見たくなんかない。
じぶんの思いにひたりこんでいたみぎわに、ち、と舌をならし、翠が幹のとなりにまわりこむ。白い腕が幹の腕をとらえ、ふりむかせる。幹が応えるように、首をかしげる。まだ赤いそこを、さらす。
「お・ま・え・と・いっ・しょ」
翠がうそぶき――そこへ。
みぎわに見せつけるように、幹の首すじに、その牙をつきたてた。そうして、母親の乳房をさぐりあてた赤んぼうのように、目を細めてやがて閉じて、そうして――。
翠の喉が、ぐびりと動く。幹が、陶然としたようすで、目を半開きにして、翠の肩に手をのせる。協力するように。
幹のくちびるが、わずかにひらく。
それは、めまいのする光景だった。
やがて、翠のくちびるがなごりおしげに首からはなれると、幹は、ゆっくりと息をつく。くちびるをしめらせて、
「だいじょうぶだよ。摂るもの摂ったからすぐ熱もひくし、そうしたら引っこむから」
無意識のうちにそのあたりを、牙のかたちをなめてたしかめていたみぎわに、とりなすように言う。
「微熱つづいてたでしょここんとこ」
「動悸、発熱、めまい。異性を目にしたときに、とくにひどい」
「こころあたり、なかった」
ふたりにたてつづけに聞かれる内容。よくわからないまま、みぎわはぼんやり答える。
「あ‥‥でも、それは」
「うん。真荘さんが相談にきたんだ」
「幸ちゃん‥‥真荘さんが?」
うん、と幹はうなずいて、みぎわのとなりに腰をかける。
「みぎわくんとね、つきあってるんでしょ。そのことで相談があるけど、教師やなんかにはちょっと言いにくいからって。みぎわくんのようすがおかしいって」
くすっと笑って、
「みぎわくん真荘さんのこと、ものすごい目で見るときがあるって」
「自制心すっとばしてたわけだ。この餓鬼が」
「翠さん」
「だろうが。餌に悟られてどうする」
「餌‥‥って!」
おもわず声をあげる。翠がふんと鼻で笑い、幹が、ああ、と頭をかかえる。
「ちょっと、話がずれて――」
「どういうことですか、餌って、そんな言い方ないでしょう!」
「餌は餌だ」
「翠さんっ」
「みぎわくんおちついて」
「幹、さん」
「みぎわくん」
「これがだまってられますか」
「牙も生えそこなった餓鬼がいっちょまえの口きいて」
「翠さん。ちょっと、ふたりとも、ちょっと待って。これじゃ話がすすまない。みぎわくん」
まあすわって、と言われ、腰をうかせていたことに気づき、翠をにらみつけたまま、みぎわは椅子に腰をおろす。
「翠さんも、ちょっと黙っていてもらえますか。あなたのもの言い、みぎわくんを刺激するばっかりだ」
翠がふいと横をむく、その髪を幹がもてあそぶようにひとすくい指にからめとる。
「すねないでくださいよ、たのむから」
なにじゃれあってんだ、とみぎわが心のなかで毒づく。
「じゃれちゃいない。こいつがかってになついているだけだ」
間髪をいれず翠が言って、幹の手をはらう。みぎわはむっとする。
「それ。さっきからそれ、テレパシーかなんか知らないけど――」
「おまえにもできる。しようとしていないだけで」
「どうでもいいけど、ひとの頭のぞくのやめてもらえません」
「おまえが大声で発信するのをやめればすむことだ」
「翠さん」
幹がなさけない声を出す。
「ああ。餓鬼の相手はもういい」
言って、翠は祭壇に近づく。説教台の上においたままになっている聖書をぱらぱらとめくり、読みあげる。
「――めでたし、恵まるる者よ、主なんじと共に在せり」
「え?」
「懼るな。汝――恵を得たり」
ぱん、と乾いた音がした。クラッカーを鳴らしたような。
そうして。
説教台には、もうだれもいなかった。
「あいた、逃げられてしまった」
幹が笑いをふくんだ声で言う。
「え、いまの」
「ああ、受胎告知でしょ。みぎわくんの役だったね」
「‥‥役?」
「天使の。マリアに妊娠を告げる役、やるんでしょう。降誕劇で」
「え、あ、じゃなくて、翠さん――」
「ああ、目くらまし」
あのひとの得意技、とつづける。
「翠さんって――」
「みぎわくんの同類だよ。あのひとは純血種だけど。説明、しなきゃね。最初から」
*** *** ***
「みぎわくんのことはね、みなとさんにたのまれていたんだ」
「みなと‥‥って、母ですか」
「うん。翠さんの紹介で。ぼくがここにオルガン弾きにきてるって言ったら、息子が吸血鬼で、それがここに入学させたいんだけどって話になって、いちおうミッションスクールでしょう。だからぼくもちょっとおどろいたんだけど――」
「ちょ、ちょっと待ってください。その『吸血鬼』っていうの」
「うん?」
「いったいなんなんですか」
「だから‥‥だって、反論の余地ないでしょう。じっさい牙もちゃんと生えたし――あ、もうひっこんじゃったかな‥‥でも、自覚症状あったでしょ。かわいい女の子とか見ると、どきどきしなかった?」
「で‥‥も、それは‥‥」
もぐもぐとつぶやくみぎわに、
「まあね、かんちがいしてしまう気もちも‥‥わからないではないけど」
ぽんぽんとみぎわの頭をたたく。
「好きな子といるときに、キスしたいって思ったことくらいあるでしょ」
「それは‥‥まあ」
「それだけですんだ? もっと、って思わなかった?」
かっと赤くなるみぎわに、にっこり笑ってみせる。けれど、そのつぎのせりふにみぎわは凍りつく。
「それがね、性欲じゃなくて、食欲かもしれないっていう自覚、あった?」
「‥‥そんな」
「うん、まあ、みぎわくんくらいの歳だとごっちゃになりやすいけど」
「ごっちゃにって、そんな」
食欲だなんて。じぶんの思いが否定されたような気がして、みぎわは言いかえそうとする。
「あ、もちろん真荘さんがそういうことを言ったってわけじゃないよ。――その話はまあおいといて、とにかくみなとさんはそっちのほうに目覚めてほしくなくて、みぎわくんをここに入学させたわけ。でもぼくらの考えはちょっとちがって、はやいとこ自覚しちゃったほうが先々らくだって、まあこれは翠さんの持論なんだけど。あのひと容赦ないけど、わるいひとじゃないから。人間とはやっぱりちがうでしょう。共存するためにはじぶんの特質ってものをきちんと認識しておかないとって。あのひともそれでさんざん苦労したくちだから、知るのは早いにこしたことないって言って」
「じゃあ、こないだからの‥‥は、やっぱりおれが」
やっぱり、自覚のないままに人を襲っていたのか。幸ちゃんのこともそういう目で見ていたのか、じぶんは。そんな思いにしずみかけるみぎわに、幹は、
「あ、それなんだけど。ごめんね」
とつぜん、深々と頭をさげる。
「え」
そうして、あっさりと、
「窓と血ね、あれぼくたちなんだ」
「‥‥え、ええ?」
「いやだからさ、だから‥‥おこらないでよ。みぎわくん、おくてなんだかなんなんだか、まったく目覚める気配ないし、みなとさんはこのまま知らないでいられるならなんて言いだすし、でもへたしたら真荘さんとベッドインしたときに――」
「――しませんっ」
「そんなむきになることないって。若い子のことだからなにがあるかわかんないでしょ。で、そういうときに理性とばしついでに制御もきかなくなったら真荘さんのこと食べちゃわないともかぎらなくて、ってことばどおりの意味でね。で、ほらやっぱり学校で殺人事件とか食人事件おこってほしくないし‥‥あ、怒ってる、かな」
「いえ‥‥」
頭をかかえてしまったみぎわに、幹はゆったり笑う。なんだか、このひとのもの言いは調子がくるう。
「だから、ぼくたちでさわぎ起こしてたんだけど、みぎわくんぜんぜん乗ってこないし、翠さんが様子見だって集会のときに声うつして惑わせたのもあれっきり流しちゃうしで。あんまり反応ないから、翠さんの食事のときにちょっと多めにとって、みぎわくんとこに血もっていってたんだけど、ああ、窓こわしちゃってごめんね。入口つくらなきゃいけなくて。それにしても」
まったく目覚めるようすがなくって往生したよ、と言って、また頭をなでる。
「そのうちみぎわくん、声まで出なくなったから‥‥人間とちがって吸血鬼は栄養補給しないと死なないまんまひからびてくでしょ。で、ちょっと手荒なことしちゃって、ごめんねほんとに」
「幹さん、‥‥と、幹さん‥‥も、吸血――」
「あ、ぼくはれっきとした人間。まじりっけなしの」
「血、吸われてるのに」
「だって食事だよ。そのたびに仲間がふえてたらすぐに人間が底ついちゃうでしょう。ぼくは人間。翠さんの餌。それだけ」
「なんで、そんなに詳しいんですか‥‥翠さんは‥‥あのひととはどういう」
どういう関係、とみなまで言わせず、
「翠さんはまじりっけなしの吸血鬼、ってのは言ったよね。ぼくはむかしっから翠さんのおっかけで、だからじっさい、ぼくと翠さんがじゃれあってるんじゃなくて、ぼくがなついてるっていう。みなとさんとは横のつながりがあるらしくて。まあ正確にはみなとさんの旦那さんだったひとと翠さんにつながりがあるらしいんだ。詳しいことはぼくもよく知らない。とにかく、吸血鬼だけじゃなくて、人間外の存在って、けっこうあちこちにいるらしいよ、これは翠さんの受け売りだけど」
わざわざカムアウトしないもんねえ、とつぶやいて、幹は首をすくめる。
「ぼくは翠さんのからみでなんとなく吸血鬼とかそういうことに詳しくなってるだけ。門前の小僧だよ。なんにせよ罰あたりな神学生だけど――ついて来られる?」
話、あっちこっちに飛んでるけど、と幹がみぎわの顔をのぞきこむ。
「――よく、わからない‥‥けど」
「うん、いっぺんにわかろうとすることないよ。それでね、はやいとこみぎわくんに目覚めてもらって、真荘さんのこともはっきりさせたほうがいいだろうと思ったんだけど。食欲だとしたら別れてあげないとかわいそうだし」
「え、っと、ちょっとまってください。そこでどうしてそういう話になるんですか」
「ん、なにが」
「だから、通り魔事件とかそういうのが、そんな‥‥個人的なレベルの」
「通り魔なんて、そもそも個人的なレベルの犯罪だと思うけど、さかうらみとか‥‥。ごめん、話がそれるね。あのね、おおごとにはしてないよ、ぜんぜん。通り魔って言っても校内でささやかれているだけだし、あ、言っとくけど女の子たちには手は出していないから。夢みてもらっただけだよ。血はぜんぶぼくの――って、ああ、そうか。ぼくの血だからだめだったのかもしれないね。女の子の血だったらもっとはやく目覚められたかもしれないんだ」
「え、なんですかそれ」
「いや、だからさ、みぎわくん仮にも男の子だから、女の子の血のほうがざわめくだろうって‥‥ストレートだよねみぎわくん。女の子とつきあってるわけだし」
「――あー‥‥もう、いいです」
なんだか、悩むのがばかばかしくなってきた。幹にかかると、人間とか吸血鬼とかいうことが、背が高いとか低いとか、そういうこととあまりかわらないレベルの問題のように思えてくる。
「だからね、とりあえず今回のことで血の吸いかたわかったと思うから。おなかすいたらいつでもぼくんとこおいで」
「はあ?」
「とりあえずはね。いまぼく翠さんの専属なんだけど、みぎわくんひとりくらいなら、ふえてもまかなえると思う。声出なくなるまでがまんしちゃいけないよ。真荘さん犠牲にしたくないんなら」
「そこに‥‥、どうして真荘さんが出てくるんですか」
「だからね、真荘さんの心配は、歳ごろの女の子らしいもので、ボーイフレンドがこのごろ、キス以上に進みたがっているようで不安だっていう――まあ、先生方にも言いにくいってことで部外者のぼくに相談しにきたんだろうけど。それでぼくらとしては、早々にみぎわくんに目覚めてもらわなきゃって、ちょっと結論を急いだふしはあるけど」
「真荘さんは」
「ああ、ぼくに相談っていうのはだから、真荘さん側は、よくある恋愛の悩みごと。それでね、真荘さんはみぎわくんのこと好きでしょう。だからこんどはみぎわくんが考える番なんだよ」
「考えるって」
「みぎわくんは、真荘さんと恋愛してるのかってこと。きちんと、おなかいっぱいの状態で真荘さんと話して、ほんとに好きなのかそれともおなか空いてただけなのかを確認しなきゃねっていう。そのあとのことはそのあとのこと。わかる?」
そんなあっけらかんと言われても。
そもそも、言われたことの、半分もわかっていないような気がする。
「だからぼくたちはね、吸血鬼だとかそういう余計なものを取りのぞいただけなんだよ。あとはみぎわくんがじぶんで考えること。おなかすいても、それと真荘さんのことは切りはなして考えられる状況を作ってあげないと、おたがいに悲しいでしょ。みなとさんは知らないままいられればそれでいいって言ったけど、それはもちろん、みぎわくんひとりのことなら、眠りつづけていたってまったくかまわないんだけど、でもみぎわくん、人間社会で生きていて、たくさんの人間とかかわっているわけだから、いつまでも眠りつづけたままではいられないんじゃないかって思って、ぼくらおせっかいしちゃった。いいことなのかどうか、それはわからないけど」
「幹さんって」
「うん」
「何者なんですか」
「ただの人間。残念ながら」
「嘘」
幹がにが笑いをうかべる。
「なんかいろんなこと知ってて」
「うん、まあ神学勉強して、ついでにその周辺もちょっとかじったから、ひとよりは詳しいかな」
「周辺って」
「悪魔とか堕天使とかその変形とか」
あとね、と、なにがおかしいのかくすりと笑って、
「ぼくのうち、どうも吸血鬼に好かれる家系らしくって」
「へ?」
「体質なのかなあ、もう何代も、みょうに吸血鬼とのからみがあるんだよね。ぼくが神学部に進んだのも、ある意味ではそれがかかわっているんだけど、そういうオカルティックなのぼく嫌いでね、逃れたくて」
でもそう言いながらけっきょく吸血鬼にひとめぼれしちゃって、と笑う。
「翠さん、ですか」
うん、とうなずいて続ける。
「でもあのひとああいう、同族以外には目もくれないひとだから」
むくわれなくて、と肩をすくめる。
「なんかほんとに――」
「なに」
「なんかほんとに、なんでもありなんですね」
うまくじぶんの気もちがことばにできない。なんだか、じぶんでもよくわからない、ため息にちかいものをことばにしてしまったみぎわに、幹は笑う。
「うん。ほんとに、なんでもありだと思うよ」
吸血鬼が人間にほれるのも、人間が吸血鬼にほれるのも、ちょっとだけ吸血鬼社会の事情のわかっている人間がいるのもその逆も。
「まあ、みんなでそれなりに住みわけたり共存したりしながら、なかよくやってゆければいいよね」
*** *** ***
とおくで鐘が鳴った。授業終了を告げる鐘。
それが、なにか、もっとちがうなにかを告げるもののように、みぎわの耳には聞こえた。
なにかの区切りを知らせる合図。
「翠さん」
いつのまにか、翠が立っていた。
「話は終わったか」
「まあ、終わったようなそうでないような。みぎわくん送ってやってくれますか」
「え、いいですよひとりで」
「だってそれじゃまずいでしょう、いくらなんでも」
幹に指をさされ、あらためてじぶんの姿――血にぬれたパジャマを着ていることを思いだす。そのために翠がもどってきてくれたのだということに気づき、
「おねがいします」
と頭をさげる。翠がみぎわの手をとる。
「目を閉じろ」
目をあけると、そこはじぶんの部屋だった。
「テレポート、っていうやつですか」
「ただの目くらましだ。おまえの血は咬み裂きの血、おまえにもできる」
「え」
「神崎などというふざけたまやかしを使うから、道を作るのに往生した」
「なんですか、それ」
「おまえの母親の浅知恵だ。神に近づけておまえを守ろうとした。神崎はそもそもかんざきではない。咬み裂きだ。おまえの父親だ。おまえの牙だ。牙を抜かれれば、生きながら干からびるだけだ。――あとはおまえが決めろ。かんざきか、かみさきか。牙を使うか干からびるか。雑種は強い。やすやすとは死なない。時間はたっぷりある――懼るな」
翠が、みぎわのほおに手をそえる。
「懼るな。汝、恵を得たり」
「それ」
受胎告知。幹がそう言っていた。
「恵(めぐみ)だ。咬み裂きの血はおまえのもの。身獲(みど)りの血は私のもの。それぞれに恵だ。どう使うか封印するか、すべてはそれを得た者たちにかかっている。恵は、それと知らずにいれば恵ではない。おまえは知った。恵を得、歩みはじめる」
*** *** ***
「ただいま」
「おう、ずいぶんぐあいよさそうだな」
「おかえり」
「声も出てんじゃん」
真琴と木月が、鞄をそこいらに放りだしながら口々に言う。
「ああ、寝たらすっきりした」
「たしかにすっきりした顔してるよ」
あのあと、翠はまた例の「目くらまし」とやらで消え、みぎわは汚れたパジャマを替え、なにもなかった顔にもどった、つもりでいる。真琴あたりにはなにか勘づかれているかもしれないけれど、むこうはなにも言わないからみぎわもなにも言わない。
そういうものだろう、と思う。同居生活のこつ、というか、あまりなにもかもぶっちゃけてしまわないほうが、うまくゆくこともおおい。
「あ、そうだ。これ」
鞄のなかをついでのように、真琴が綴じた紙の束をみぎわに投げてよこした。
「なに」
「楽譜と台本」
「楽譜?」
「例の、ページェントの。わたしとけって、流佳に言われてて」
‥‥忘れてた。
星にみちびかれ 野山こえて
ああ 奇しくかがやく 星の光よ、
われらをみちびけ み子のみもとに
「――おちついた?」
ぐったりしているみぎわに、幹が声をかける。
いくらか顔が青ざめて見えるのは気のせいだけではないだろう。
「ま、ちゃんと牙つかえてよかったってことで」
首をなでながら幹が言って、みぎわは思いだしてしまった。幹の喉もとにすがりついて血をすすりこみ、そのうちに、じぶんの歯が――牙が幹の肉にめりこんだその感触を。
頭をかかえてしまう。
「はじめてのご感想は」
「――う」
うめいて、声が出ることにおどろく。
「栄養補給したから」
こともなげに翠が言う。
「なん‥‥なんですかいまのは」
「栄養補給」
「授乳、かな、むしろ。血がたりなくなってみぎわくん、声出なくなってたでしょ」
「って‥‥」
「吸血鬼だろう」
「翠さん」
説明にならないことばを投げてくる翠を、幹はにが笑いをうかべてさえぎる。みぎわに向きなおって、笑ってみせる。
「あのね。みぎわくん吸血鬼でしょ」
「――だれ、が」
「無自覚馬鹿」
翠が横から口をはさむ。まあまあとおさえようとする幹を無視して、じぶんのくちびるをもちあげ、ぐいと歯をむきだす。その、犬歯。その――
「おまえのといっしょ」
「鏡があればね。みぎわくんもじぶんのこと見られるんだけど」
鏡、なんて必要じゃなかった。じぶんの舌がふれる、いつもとちがう感覚に、とっくにみぎわは気づいていた。さっき幹に裂かれた肉から生えている、犬歯のあるべきところに、下唇を傷つけるほどに伸びきって、とがっている、それは翠のものとおなじかたちをしているのだろう。
その、牙。ほかの歯の二倍ほどの長さのそれは毒蛇の牙のように、細くするどい。鏡を見なくても。鏡、を。見たくなんかない。
じぶんの思いにひたりこんでいたみぎわに、ち、と舌をならし、翠が幹のとなりにまわりこむ。白い腕が幹の腕をとらえ、ふりむかせる。幹が応えるように、首をかしげる。まだ赤いそこを、さらす。
「お・ま・え・と・いっ・しょ」
翠がうそぶき――そこへ。
みぎわに見せつけるように、幹の首すじに、その牙をつきたてた。そうして、母親の乳房をさぐりあてた赤んぼうのように、目を細めてやがて閉じて、そうして――。
翠の喉が、ぐびりと動く。幹が、陶然としたようすで、目を半開きにして、翠の肩に手をのせる。協力するように。
幹のくちびるが、わずかにひらく。
それは、めまいのする光景だった。
やがて、翠のくちびるがなごりおしげに首からはなれると、幹は、ゆっくりと息をつく。くちびるをしめらせて、
「だいじょうぶだよ。摂るもの摂ったからすぐ熱もひくし、そうしたら引っこむから」
無意識のうちにそのあたりを、牙のかたちをなめてたしかめていたみぎわに、とりなすように言う。
「微熱つづいてたでしょここんとこ」
「動悸、発熱、めまい。異性を目にしたときに、とくにひどい」
「こころあたり、なかった」
ふたりにたてつづけに聞かれる内容。よくわからないまま、みぎわはぼんやり答える。
「あ‥‥でも、それは」
「うん。真荘さんが相談にきたんだ」
「幸ちゃん‥‥真荘さんが?」
うん、と幹はうなずいて、みぎわのとなりに腰をかける。
「みぎわくんとね、つきあってるんでしょ。そのことで相談があるけど、教師やなんかにはちょっと言いにくいからって。みぎわくんのようすがおかしいって」
くすっと笑って、
「みぎわくん真荘さんのこと、ものすごい目で見るときがあるって」
「自制心すっとばしてたわけだ。この餓鬼が」
「翠さん」
「だろうが。餌に悟られてどうする」
「餌‥‥って!」
おもわず声をあげる。翠がふんと鼻で笑い、幹が、ああ、と頭をかかえる。
「ちょっと、話がずれて――」
「どういうことですか、餌って、そんな言い方ないでしょう!」
「餌は餌だ」
「翠さんっ」
「みぎわくんおちついて」
「幹、さん」
「みぎわくん」
「これがだまってられますか」
「牙も生えそこなった餓鬼がいっちょまえの口きいて」
「翠さん。ちょっと、ふたりとも、ちょっと待って。これじゃ話がすすまない。みぎわくん」
まあすわって、と言われ、腰をうかせていたことに気づき、翠をにらみつけたまま、みぎわは椅子に腰をおろす。
「翠さんも、ちょっと黙っていてもらえますか。あなたのもの言い、みぎわくんを刺激するばっかりだ」
翠がふいと横をむく、その髪を幹がもてあそぶようにひとすくい指にからめとる。
「すねないでくださいよ、たのむから」
なにじゃれあってんだ、とみぎわが心のなかで毒づく。
「じゃれちゃいない。こいつがかってになついているだけだ」
間髪をいれず翠が言って、幹の手をはらう。みぎわはむっとする。
「それ。さっきからそれ、テレパシーかなんか知らないけど――」
「おまえにもできる。しようとしていないだけで」
「どうでもいいけど、ひとの頭のぞくのやめてもらえません」
「おまえが大声で発信するのをやめればすむことだ」
「翠さん」
幹がなさけない声を出す。
「ああ。餓鬼の相手はもういい」
言って、翠は祭壇に近づく。説教台の上においたままになっている聖書をぱらぱらとめくり、読みあげる。
「――めでたし、恵まるる者よ、主なんじと共に在せり」
「え?」
「懼るな。汝――恵を得たり」
ぱん、と乾いた音がした。クラッカーを鳴らしたような。
そうして。
説教台には、もうだれもいなかった。
「あいた、逃げられてしまった」
幹が笑いをふくんだ声で言う。
「え、いまの」
「ああ、受胎告知でしょ。みぎわくんの役だったね」
「‥‥役?」
「天使の。マリアに妊娠を告げる役、やるんでしょう。降誕劇で」
「え、あ、じゃなくて、翠さん――」
「ああ、目くらまし」
あのひとの得意技、とつづける。
「翠さんって――」
「みぎわくんの同類だよ。あのひとは純血種だけど。説明、しなきゃね。最初から」
*** *** ***
「みぎわくんのことはね、みなとさんにたのまれていたんだ」
「みなと‥‥って、母ですか」
「うん。翠さんの紹介で。ぼくがここにオルガン弾きにきてるって言ったら、息子が吸血鬼で、それがここに入学させたいんだけどって話になって、いちおうミッションスクールでしょう。だからぼくもちょっとおどろいたんだけど――」
「ちょ、ちょっと待ってください。その『吸血鬼』っていうの」
「うん?」
「いったいなんなんですか」
「だから‥‥だって、反論の余地ないでしょう。じっさい牙もちゃんと生えたし――あ、もうひっこんじゃったかな‥‥でも、自覚症状あったでしょ。かわいい女の子とか見ると、どきどきしなかった?」
「で‥‥も、それは‥‥」
もぐもぐとつぶやくみぎわに、
「まあね、かんちがいしてしまう気もちも‥‥わからないではないけど」
ぽんぽんとみぎわの頭をたたく。
「好きな子といるときに、キスしたいって思ったことくらいあるでしょ」
「それは‥‥まあ」
「それだけですんだ? もっと、って思わなかった?」
かっと赤くなるみぎわに、にっこり笑ってみせる。けれど、そのつぎのせりふにみぎわは凍りつく。
「それがね、性欲じゃなくて、食欲かもしれないっていう自覚、あった?」
「‥‥そんな」
「うん、まあ、みぎわくんくらいの歳だとごっちゃになりやすいけど」
「ごっちゃにって、そんな」
食欲だなんて。じぶんの思いが否定されたような気がして、みぎわは言いかえそうとする。
「あ、もちろん真荘さんがそういうことを言ったってわけじゃないよ。――その話はまあおいといて、とにかくみなとさんはそっちのほうに目覚めてほしくなくて、みぎわくんをここに入学させたわけ。でもぼくらの考えはちょっとちがって、はやいとこ自覚しちゃったほうが先々らくだって、まあこれは翠さんの持論なんだけど。あのひと容赦ないけど、わるいひとじゃないから。人間とはやっぱりちがうでしょう。共存するためにはじぶんの特質ってものをきちんと認識しておかないとって。あのひともそれでさんざん苦労したくちだから、知るのは早いにこしたことないって言って」
「じゃあ、こないだからの‥‥は、やっぱりおれが」
やっぱり、自覚のないままに人を襲っていたのか。幸ちゃんのこともそういう目で見ていたのか、じぶんは。そんな思いにしずみかけるみぎわに、幹は、
「あ、それなんだけど。ごめんね」
とつぜん、深々と頭をさげる。
「え」
そうして、あっさりと、
「窓と血ね、あれぼくたちなんだ」
「‥‥え、ええ?」
「いやだからさ、だから‥‥おこらないでよ。みぎわくん、おくてなんだかなんなんだか、まったく目覚める気配ないし、みなとさんはこのまま知らないでいられるならなんて言いだすし、でもへたしたら真荘さんとベッドインしたときに――」
「――しませんっ」
「そんなむきになることないって。若い子のことだからなにがあるかわかんないでしょ。で、そういうときに理性とばしついでに制御もきかなくなったら真荘さんのこと食べちゃわないともかぎらなくて、ってことばどおりの意味でね。で、ほらやっぱり学校で殺人事件とか食人事件おこってほしくないし‥‥あ、怒ってる、かな」
「いえ‥‥」
頭をかかえてしまったみぎわに、幹はゆったり笑う。なんだか、このひとのもの言いは調子がくるう。
「だから、ぼくたちでさわぎ起こしてたんだけど、みぎわくんぜんぜん乗ってこないし、翠さんが様子見だって集会のときに声うつして惑わせたのもあれっきり流しちゃうしで。あんまり反応ないから、翠さんの食事のときにちょっと多めにとって、みぎわくんとこに血もっていってたんだけど、ああ、窓こわしちゃってごめんね。入口つくらなきゃいけなくて。それにしても」
まったく目覚めるようすがなくって往生したよ、と言って、また頭をなでる。
「そのうちみぎわくん、声まで出なくなったから‥‥人間とちがって吸血鬼は栄養補給しないと死なないまんまひからびてくでしょ。で、ちょっと手荒なことしちゃって、ごめんねほんとに」
「幹さん、‥‥と、幹さん‥‥も、吸血――」
「あ、ぼくはれっきとした人間。まじりっけなしの」
「血、吸われてるのに」
「だって食事だよ。そのたびに仲間がふえてたらすぐに人間が底ついちゃうでしょう。ぼくは人間。翠さんの餌。それだけ」
「なんで、そんなに詳しいんですか‥‥翠さんは‥‥あのひととはどういう」
どういう関係、とみなまで言わせず、
「翠さんはまじりっけなしの吸血鬼、ってのは言ったよね。ぼくはむかしっから翠さんのおっかけで、だからじっさい、ぼくと翠さんがじゃれあってるんじゃなくて、ぼくがなついてるっていう。みなとさんとは横のつながりがあるらしくて。まあ正確にはみなとさんの旦那さんだったひとと翠さんにつながりがあるらしいんだ。詳しいことはぼくもよく知らない。とにかく、吸血鬼だけじゃなくて、人間外の存在って、けっこうあちこちにいるらしいよ、これは翠さんの受け売りだけど」
わざわざカムアウトしないもんねえ、とつぶやいて、幹は首をすくめる。
「ぼくは翠さんのからみでなんとなく吸血鬼とかそういうことに詳しくなってるだけ。門前の小僧だよ。なんにせよ罰あたりな神学生だけど――ついて来られる?」
話、あっちこっちに飛んでるけど、と幹がみぎわの顔をのぞきこむ。
「――よく、わからない‥‥けど」
「うん、いっぺんにわかろうとすることないよ。それでね、はやいとこみぎわくんに目覚めてもらって、真荘さんのこともはっきりさせたほうがいいだろうと思ったんだけど。食欲だとしたら別れてあげないとかわいそうだし」
「え、っと、ちょっとまってください。そこでどうしてそういう話になるんですか」
「ん、なにが」
「だから、通り魔事件とかそういうのが、そんな‥‥個人的なレベルの」
「通り魔なんて、そもそも個人的なレベルの犯罪だと思うけど、さかうらみとか‥‥。ごめん、話がそれるね。あのね、おおごとにはしてないよ、ぜんぜん。通り魔って言っても校内でささやかれているだけだし、あ、言っとくけど女の子たちには手は出していないから。夢みてもらっただけだよ。血はぜんぶぼくの――って、ああ、そうか。ぼくの血だからだめだったのかもしれないね。女の子の血だったらもっとはやく目覚められたかもしれないんだ」
「え、なんですかそれ」
「いや、だからさ、みぎわくん仮にも男の子だから、女の子の血のほうがざわめくだろうって‥‥ストレートだよねみぎわくん。女の子とつきあってるわけだし」
「――あー‥‥もう、いいです」
なんだか、悩むのがばかばかしくなってきた。幹にかかると、人間とか吸血鬼とかいうことが、背が高いとか低いとか、そういうこととあまりかわらないレベルの問題のように思えてくる。
「だからね、とりあえず今回のことで血の吸いかたわかったと思うから。おなかすいたらいつでもぼくんとこおいで」
「はあ?」
「とりあえずはね。いまぼく翠さんの専属なんだけど、みぎわくんひとりくらいなら、ふえてもまかなえると思う。声出なくなるまでがまんしちゃいけないよ。真荘さん犠牲にしたくないんなら」
「そこに‥‥、どうして真荘さんが出てくるんですか」
「だからね、真荘さんの心配は、歳ごろの女の子らしいもので、ボーイフレンドがこのごろ、キス以上に進みたがっているようで不安だっていう――まあ、先生方にも言いにくいってことで部外者のぼくに相談しにきたんだろうけど。それでぼくらとしては、早々にみぎわくんに目覚めてもらわなきゃって、ちょっと結論を急いだふしはあるけど」
「真荘さんは」
「ああ、ぼくに相談っていうのはだから、真荘さん側は、よくある恋愛の悩みごと。それでね、真荘さんはみぎわくんのこと好きでしょう。だからこんどはみぎわくんが考える番なんだよ」
「考えるって」
「みぎわくんは、真荘さんと恋愛してるのかってこと。きちんと、おなかいっぱいの状態で真荘さんと話して、ほんとに好きなのかそれともおなか空いてただけなのかを確認しなきゃねっていう。そのあとのことはそのあとのこと。わかる?」
そんなあっけらかんと言われても。
そもそも、言われたことの、半分もわかっていないような気がする。
「だからぼくたちはね、吸血鬼だとかそういう余計なものを取りのぞいただけなんだよ。あとはみぎわくんがじぶんで考えること。おなかすいても、それと真荘さんのことは切りはなして考えられる状況を作ってあげないと、おたがいに悲しいでしょ。みなとさんは知らないままいられればそれでいいって言ったけど、それはもちろん、みぎわくんひとりのことなら、眠りつづけていたってまったくかまわないんだけど、でもみぎわくん、人間社会で生きていて、たくさんの人間とかかわっているわけだから、いつまでも眠りつづけたままではいられないんじゃないかって思って、ぼくらおせっかいしちゃった。いいことなのかどうか、それはわからないけど」
「幹さんって」
「うん」
「何者なんですか」
「ただの人間。残念ながら」
「嘘」
幹がにが笑いをうかべる。
「なんかいろんなこと知ってて」
「うん、まあ神学勉強して、ついでにその周辺もちょっとかじったから、ひとよりは詳しいかな」
「周辺って」
「悪魔とか堕天使とかその変形とか」
あとね、と、なにがおかしいのかくすりと笑って、
「ぼくのうち、どうも吸血鬼に好かれる家系らしくって」
「へ?」
「体質なのかなあ、もう何代も、みょうに吸血鬼とのからみがあるんだよね。ぼくが神学部に進んだのも、ある意味ではそれがかかわっているんだけど、そういうオカルティックなのぼく嫌いでね、逃れたくて」
でもそう言いながらけっきょく吸血鬼にひとめぼれしちゃって、と笑う。
「翠さん、ですか」
うん、とうなずいて続ける。
「でもあのひとああいう、同族以外には目もくれないひとだから」
むくわれなくて、と肩をすくめる。
「なんかほんとに――」
「なに」
「なんかほんとに、なんでもありなんですね」
うまくじぶんの気もちがことばにできない。なんだか、じぶんでもよくわからない、ため息にちかいものをことばにしてしまったみぎわに、幹は笑う。
「うん。ほんとに、なんでもありだと思うよ」
吸血鬼が人間にほれるのも、人間が吸血鬼にほれるのも、ちょっとだけ吸血鬼社会の事情のわかっている人間がいるのもその逆も。
「まあ、みんなでそれなりに住みわけたり共存したりしながら、なかよくやってゆければいいよね」
*** *** ***
とおくで鐘が鳴った。授業終了を告げる鐘。
それが、なにか、もっとちがうなにかを告げるもののように、みぎわの耳には聞こえた。
なにかの区切りを知らせる合図。
「翠さん」
いつのまにか、翠が立っていた。
「話は終わったか」
「まあ、終わったようなそうでないような。みぎわくん送ってやってくれますか」
「え、いいですよひとりで」
「だってそれじゃまずいでしょう、いくらなんでも」
幹に指をさされ、あらためてじぶんの姿――血にぬれたパジャマを着ていることを思いだす。そのために翠がもどってきてくれたのだということに気づき、
「おねがいします」
と頭をさげる。翠がみぎわの手をとる。
「目を閉じろ」
目をあけると、そこはじぶんの部屋だった。
「テレポート、っていうやつですか」
「ただの目くらましだ。おまえの血は咬み裂きの血、おまえにもできる」
「え」
「神崎などというふざけたまやかしを使うから、道を作るのに往生した」
「なんですか、それ」
「おまえの母親の浅知恵だ。神に近づけておまえを守ろうとした。神崎はそもそもかんざきではない。咬み裂きだ。おまえの父親だ。おまえの牙だ。牙を抜かれれば、生きながら干からびるだけだ。――あとはおまえが決めろ。かんざきか、かみさきか。牙を使うか干からびるか。雑種は強い。やすやすとは死なない。時間はたっぷりある――懼るな」
翠が、みぎわのほおに手をそえる。
「懼るな。汝、恵を得たり」
「それ」
受胎告知。幹がそう言っていた。
「恵(めぐみ)だ。咬み裂きの血はおまえのもの。身獲(みど)りの血は私のもの。それぞれに恵だ。どう使うか封印するか、すべてはそれを得た者たちにかかっている。恵は、それと知らずにいれば恵ではない。おまえは知った。恵を得、歩みはじめる」
*** *** ***
「ただいま」
「おう、ずいぶんぐあいよさそうだな」
「おかえり」
「声も出てんじゃん」
真琴と木月が、鞄をそこいらに放りだしながら口々に言う。
「ああ、寝たらすっきりした」
「たしかにすっきりした顔してるよ」
あのあと、翠はまた例の「目くらまし」とやらで消え、みぎわは汚れたパジャマを替え、なにもなかった顔にもどった、つもりでいる。真琴あたりにはなにか勘づかれているかもしれないけれど、むこうはなにも言わないからみぎわもなにも言わない。
そういうものだろう、と思う。同居生活のこつ、というか、あまりなにもかもぶっちゃけてしまわないほうが、うまくゆくこともおおい。
「あ、そうだ。これ」
鞄のなかをついでのように、真琴が綴じた紙の束をみぎわに投げてよこした。
「なに」
「楽譜と台本」
「楽譜?」
「例の、ページェントの。わたしとけって、流佳に言われてて」
‥‥忘れてた。
11/07/14 00:41更新 / blueblack
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