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連載小説
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ビクターの犬1
ビクターの犬
 佐和はまいにち学校がすむとまっすぐ家にかえる。家にかえって、まっすぐじぶんの部屋へ行く。そうしてそのあとずっと、部屋にいる。
 とうさんはおそくまで帰らないし、にいさんだって家にいることのほうがすくないくらいだから、佐和は家ではほとんどいつでも、ひとりだ。どの部屋にもだれもいないから、佐和はまっすぐじぶんの部屋に行く。そうしてそのまま、だれかが帰ってきて、物音がしはじめるまでのあいだ、部屋にこもっている。

 家はわりと大きくて、そうしてとても、しずかだ。
 佐和が十三でこの家にきたとき、とうさんは佐和にじぶんの部屋をくれた。きれいなベッドのはいった大きな部屋だ。ほんとうはふとんのほうが好きだったけれど、まえいた家でもベッドだったから、佐和はなにも言わなかった。

 佐和はじぶんの部屋で、いつもCDを聴いている。誕生日にとうさんが買ってくれたステレオはターンテーブルもついているおおきなもので、でもレコードはめったに聴かない。とうさんの集めていたレコードは古すぎて、管理もわるかったのか反ってしまっているから、だから佐和はこづかいでCDを買って、ふだんはそれを聴いている。

 部屋でひとりでいると、時間の感覚がなくなってくる。時間なんてどうでもよくなってきて、おなかがすいたとかからだの節々が痛いとか、そういったこともどうでもよくなってきて、やがてなにもかも投げだしてしまう。そうしているうち、なげだしてしまった時間の感覚といっしょに、じぶんという人間のこともわすれてしまう。じぶんがどこにどういう姿勢でいるのか、考えるのもめんどうになってきて、それで考えることをやめてしまう。
 けれどそうやってなにも考えないまま、ちょっとしたことで不用意に動いて、たとえば曲のかわりめにふと腕をのばして、のばしたさきになにがあるのか見ていなかったりする。それでベッドサイドの目覚まし時計をはらい落としてしまったりする。そうして、そういったものはたいてい、佐和の足のうえだとかに落ちてくる。そうでなければそのわきにある鏡を道づれにして落ちてきて、板張の床で粉々にくだける。そうなればきっと、くだけたかけらを踏むか、かたづけるときに指を切る。

 佐和のからだには生傷がたえない。
 時計が足に落ちてくればすり傷ができるか、ときには痣ができる。指を切れば血がにじむ。そうなってはじめて、佐和はじぶんを思いだす。じぶんがひとりで部屋にいて、CDを聴いていたことを思いだす。
 でもまたすぐに佐和の注意は音楽のほうにもどって、傷口をおざなりにぺろりとなめて、そうしてまた、床にすわりこんでCDを聴いている。こりるということがない。
 そんなだから、佐和のからだには生傷がたえない。不注意でできる、ばかみたいな傷ばかりだ。

 いままで一緒にくらしたおとなたちのなかで、たぶんとうさんがいちばん佐和にやさしい。佐和がほしいと言えば、すこしくらい高いものでも買ってくれる。ステレオにしても、いまどきレコードなんて買わないからと佐和が言っても、あってこまるものでもないだろうといって、どこからかりっぱなセットをさがしてきて買ってくれた。

 おおきなステレオは、おおきな部屋によくはえる。この家に越してくるときに持ってきた安物のCDラジカセは、このおおきな部屋にあるといかにもみすぼらしくて、音はそれほどわるくなってはいなかったけれど、やっぱり捨ててしまった。
 まえの家からもってきたものはそんなふうに、あたらしい部屋にはふつりあいすぎたから、荷物をほどいてみて、あちらに置きこちらに並べしてみたものの、けっきょくほとんどはその週のうちにまとめてごみに出した。
 とうさんは家具からなにからぜんぶ新しくそろえてくれていた。それで、新しい部屋には佐和がはいるよりさきに佐和のための新しい家具がはいっていた。けれど、ごみ箱とか机におく鏡とか、そういうこまごまとしたものはなかったから、とうさんは佐和をちかくのデパートに連れていってくれた。
 そうして新しい部屋にあう色あいとかたちのいろんなものをそろえた。部屋にもどって包装紙のセロテープに爪をたてて、そうっとそうっとテープを浮かせて、紙に傷をつけないできれいにはがせたのがうれしかった。でもきれいにテープをはずして、折りぐせをすっかりのばして四つに畳んだ包装紙をしまうのに適当なところがみつからなかった。まだ本のないっていない本棚にいれてみたけれど、はみだしてしまってみっともなかった。新しい、きれいなごみ箱に投げこんで捨ててしまおうかとも考えて、でもそれもやめた。

 どこに置くかを考えて、目的があって買ったものは、色もかたちも新しい部屋によくとけこんだ。
 そうでないものは、どこにおいてもいけなかった。

 佐和がもらった部屋はそうやって、どんどん中学生の女の子の部屋らしくなっていった。

 佐和は耳がよくない。左が難聴ぎみで、CDを聴くときは右耳をスピーカーによせる。音量をしぼって、首をかしげるように聴いているすがたはビクターの犬みたいだ、とにいさんは言う。とうさんはボリュームをあげればいいと言う。けれど、ボリュームをあげると耳なりがするし、おなじものをくりかえしくりかえし聴くのが好きだから、佐和はいつも、ほかのひとにうるさくないように、耳をよせなければ聴こえないくらいの音量で、たいていは家にかえってから寝るまでずっと、おなじ一枚のCDを聴いている。

 佐和が幼稚園のころ、とうさんとかあさんが離婚した。そのとき、銀行の預金とかいろいろなものをふたりでわけて、とうさんとかあさんは子どももわけた。にいさんはとうさんのもの、佐和はかあさんのもの。そうして佐和が五歳のときに、佐和がいてもおかまいなしにおたがいをののしりあっていた、わめき声と物のこわれる音しかしなかった家から、それまでに一生ぶんの音という音をつかいきってしまったような顔をしたかあさんとふたりっきりの、まったくなんの物音も声もしない家に引越した。
 佐和はその家で、まったくものを言わないまますごした。佐和を見ようともしないかあさんは、佐和に口をきくこともなかったから、佐和もなにも言わなかった。
 それでも二年とちょっとはそれなりにうまくやっていた。佐和もなるべくかあさんのことを見ないようにしていた。
 二年目にかあさんに恋人ができた。佐和がいると再婚できないから、佐和はじいちゃんとばあちゃんにひきとられた。じいちゃんとばあちゃんは歳をとっていて、佐和のことよりかあさんのことのほうがたいせつだった。
 じいちゃんとばあちゃんは歳をとっていて、佐和のことよりじぶんたちのことのほうがたいへんだった。お金もそんなになかった。
 佐和が中学にあがってしばらくして、ばあちゃんが庭でころんで骨を折って、じいちゃんがつきっきりになって、そんないろんなことがあって、佐和も看病しようとしたけれど、どうしてだかうまくゆかなかった。
 ある日、佐和が学校からかえってくると、じいちゃんとばあちゃんの家に、とうさんがいた。
 だから佐和は、その一週間後にとうさんの家に引越した。

 佐和のもっているCDは、学校の帰り道にある店で買ったものばかりだ。ちいさな店のわりにワールドミュージックが充実している。毎月五千円のこづかいから一枚、臨時収入があってもそれ以上は買わない。
 買うのはボーカル曲がいい。人間の声が入っているのがいい。日本語ではないのがいい。知らない国のことばで、知らない歌手がうたっているのがいい。その国の人間以外にはまったく意味をなさないことばで歌っているのがいい。どこの国だかけんとうもつかないのがいい。
 音楽を聴いているというより、ひとの声を聴いているのが好きなのかもしれない。音がないとしずかすぎる家で、まいにちまいにちひとりきりの部屋で、CDをかけて、床にぺたりとすわりこんで、ただじいっとスピーカーに耳をよせている。

 佐和の部屋は広々として、でも殺風景でないくらいに家具もはいっている。ただ、その配置だかなにだかが、佐和という存在の、その動線に、かるくかすめるくらいにひっかかるようになっているのかもしれない。佐和にはわからない。
 動線というのは空間で人間が動く道すじだ。そう、なにかの雑誌で読んだ。佐和の動線は、きっと部屋の家具の角とかその上においてあるものとか、もしかしたらもっとかすかな、たとえばばさりと服を椅子の背にかけたときに袖が床にすべり落ちるその袖口とか、そういうところにひっかかるようになっているのかもしれない。
 家具が佐和の動線にひっかかるのか、佐和の動線が家具にひっかかるのか、どちらなのかはわからない。ただ、佐和が来るよりさきに家具があったから、佐和はいまさら家具を動かそうと思わない。

 おとなたちは──いつも。
 にいさんはそう言った。
 おとなになんてならない。
 佐和を抱きしめて、そう言った。
 それは佐和がずっと思っていたことだった。
 ずっと思っていて、でも口にはださなかったことだった。
 にいさんはもう佐和を抱きしめたりしない。もうだれも佐和にふれない。
 おとなになんてならないと、そう言ったにいさんは高校生になっていて、十七の男の子は、十四の妹をもう抱きしめない。
11/07/13 12:24更新 / blueblack
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