テレワークならECナビ Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!
無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 海外旅行保険が無料! 海外ホテル


読切小説
[TOP]
フルーツ三話より「蜜柑 −カエデ−」
 「おねさん、あれ、みかんサツマ・タンジェリン。サツマは日本?」
 やわらかいウエーヴのかかった明るい色の髪をゆらしてカエデがたずねる。そうよと答えてやると、じゃあ食べたいと言う。
 「これ、おいし?」
 言いながら、値札に気づいたか、ふわりと私を見あげる。
 「おねさん、日本のみかん高い、ねえ」
 「うん、高いね」
 カエデが私を呼ぶときの、「おねィさん」というような、そんなちょっとした発音がひっかかる。しゃべりかたのリズムがひっかかる。ことばが、単語が、ふた文字めでくいっと跳ねあがるような独特の抑揚がひっかかる、日本語なのに外国語に聞こえる。
 河崎楓なんて和風の名と日本の国籍をもちながら、栗色の巻毛にまるい目と、金色の産毛が光をあびている肌にそばかすの散った、誘拐に気をつけなと言いたくなる愛らしい顔立ちが、英米の児童文学にでも出てきそうな、私の貧困なイメージのなかにある「外国の女の子」をあまりにみごとに具現化していて、はじめて会って、はじめて名を聞いたときから、カワサキ・カエデ、と漢字表記よりカタカナでイメージしてしまう。だってカエデは自分の名もきちんと発音できない。「楓」でも「かえで」でもなく「カイデ」に聞こえる。
 イギリス系カナダ人の母親と日本人の父親のあいだに生まれた二世、日本には行ったことがなくて、そのわりにしっかりした日本語がつかえているのは、週一日、いや半日とはいえ日本語学校に通っているからだろうか。それとも、まだ小さくて親べったりだからだろうか。
 カエデはたしか六月うまれ、この夏で、いくつになるのだったろう。八つか、それとも十。
 ハーフって、こどものうちは色素がうすくても成長するにつれて濃い方の色になってくこと、よくあるんだって。兄はそう言っていた。でも目ははじめっから黒いな、こいつは。まつげは薄いのに。こんなのもありか。そう言って笑っていた。
 そういえばカエデが家で、家族と何語で話しているのか、知らない。
 「おねさん?」
 カエデは私には日本語で話さなければいけないと思っている。私も、カエデには日本語しかつかわない。
 「いいよ買って」
 きょうは暑いからおやつは果物にしよう、そう提案したのは私だ。あんまり蒸すので、近所の食料品店の、冷房のきいた屋内で涼みたい思いもあった。カエデの背丈ではとどかない位置のビニール袋を取ってやって、やさしい叔母のふりをする。
 「おねさんみかん好き? なに好き、fruitsは」
 「みかんも好きだよ。どれがいちばん好きってことはないけど、カエデはどう」
 「みかん好き。それと、りんご。それと、あー、grapes。いちばん好き」
 「じゃあ買う?」
 「いらない。みかん食べたい」
 母親によく似たほおのラインにえくぼができて、私はカエデに好かれていることをあらためて知る。じぶんのなかに流れている血のはんぶんを、父親の血のつながりを私に見ている。仕事でいそがしい両親に代わって自分といつもいっしょにいる、父親に目もとのよく似た女性を、カエデはもし自分の顔がもっと日本人に近かったら、もしこんな顔だったら、と思いながら見ている。おさないなりの外国人へのあこがれは、カエデにとっては日本へのあこがれだ。
 「そうね、このところ暑いから、酸味のあるのがおいしいね」
 きっとカエデは酸味ということばを知らない。なのに私のことばににっこり笑って応える。
 皮の表面にワックスでも塗られているのか、みかんはどれもこれも不自然にきらきら光って、さわるとほんのすこし、手にのこる感触がある。手のひらにしっくりおさまるサイズのみかんを私はひとつとりあげて、そうしてまた山にもどす。カエデもひとつ、手にとってみたそのひょうしに、となりのちいさいのが山からすべりおちて、リノリウムの床にべたり、はりつくようないやな音をたてる。カエデがちいさな声をあげてショッピングカートの車輪の陰にかくれたそれをひろいあげる、いまの感嘆符は英語だった、カエデはoopsといってしゃがみこんで、そうしてみかんをひろいあげた。
 つやつやしたみかんをつかんだ手の、指がほとんどあまらない。山にもどそうとしたのをおさえて、
 「いいよそれ、入れちゃって」
と言うと、ふしぎそうにこちらを見る。
 「No、落ちたよ。きたない」
 いいから、と、かさねて言ってやる。カエデは首をかしげながらも頷いて、まだ青いところのほうが多いそのみかんを袋に入れる。
 「いくつ食べる、おねさん」
 「いくつでも」
 「たくさん?」
 「カエデの好きなだけ取りなよ」
 「おねさん、これfruits punchしよう。サツマみかんと、りんごと、それと、いちごとmixする。mixってなんていう」
 「『まぜる』」
 「まぜる。みかんと、それと、ぜんぶ。まぜる」
 「いいわね。暑いもんね、雨ちっとも降らないし」
 「あつい、それと‥‥すごいhumid」
 「蒸し暑いのよ」
 「ムシあつい? hot & humid?」
 「そう」
 顔のまえでぱたぱたと手を泳がせてみせるとカエデが笑う。
 ほんとうに、ここ二、三日は、今日降るか、もう降るかというくらいに雲がひくくて、そのくせ手のとどきそうなところにある雲はぽつりとも水滴をこぼさないで、ただ湿気だけがどんどん重たくなってきて、だからきっとつめたいフルーツパンチがおいしいだろう。
 でもねカエデ、日本じゃみかんは冬のものなんだよ。おこたに入って食べるんだよ。
 そう口には出さないで、私はカエデがよこしたビニール袋の口をしばってカートにほうりこむ。私自身、もう十五年も日本には帰っていないけれど、でも、おぼえているかぎり、みかんは冬のものだった。そうでなければ赤いネットにみっつかよっつ入っていた冷凍みかん。それともいまは一年中出ているのだろうか、日本のみかんは。粒ももうすこしちいさかったような気がする。品種によるのだろうか、もうすこし、黄色みがかっていたような気がする。
 フルーツパンチにはカエデの好きなぶどうも入れてやろう。カートを押しながら私は考える。器はどうしよう。ガラスのボウルかなにか、あっただろうか。すいかをくりぬいてジュースを入れてもいいかもしれない。
 「カエデ、すいかは好き?」
 「すいか?」
 ピラミッド状に積みあげてあるすいかの山をさす。
 「あー、すいか。大きいよ」
 「そうね。持って帰れないかな」
 車で来ていればよかった。カエデの胴体くらいはありそうな長細いすいかをながめて考えなおす。ほかのものもあるし、今回は見送ろう。
 そういえば、カエデのうちでは冷蔵庫にすいかが入っているのをあまり見ない。こどものころ、夏になると、兄はじぶんが持つからといって買いもののたびにすいかをねだっていたものだけれど。そうやって買って帰ったすいかを切るのも兄の役目で、私がカエデの歳くらいまでは種まで取ってもらっていた。
 歳が離れていたせいか、兄は私の世話を焼くのが好きだった。日本語学校だけでは足りないからと、日本の教科書をつかって勉強も見てもらっていて、おかしなことばづかいや発音はきびしく直されたものだった。あのころは、親よりも兄のほうがよほど私のことをよく見ていたと思う。親にしてみれば新しい土地に慣れるのに必死だったのだろうけれど、あのころは――。
 あのころは、私にとってゆいいつことばの通じるあいてが兄だった。英語もろくにわからなくて、親もじぶんたちのことで手いっぱいで、兄にすがりつけばなんとかなると信じていたし、兄も応えてくれていた。学校でチャイニーズ・ジャパニーズとからかわれたときも、英語しかできないような奴らにぐちゃぐちゃ言われたくらいで泣くな、おまえはあいつらの倍ことばがしゃべれるんだと兄は私を叱りとばした。日本語は英語みたいな雑なことばとちがうんだ、おまえはぜったいに日本語を忘れるなと兄はくりかえしていた。
 いつごろからか、親がじょうだんまじりに、あいつもいつか金髪の嫁さんつれてくるのかなと言いはじめたときも、私は日本人としかつきあわないと思っていた。日本人以外とはつきあえないと感じていた。英語はいつでもよそゆきのことばで、うちでは親と話すのも兄と話すのも日本語だったから、家庭のことばは日本語以外ではありえなかった。
 兄はやがて栗色の髪の女性と結婚し、親は日本に帰り、私は兄とともにこちらに留まり、こちらで学校を出てこちらで就職した。もうこどもではない私は兄の家を出て、英語しか話せない男性と家庭を持って、週にいくどか日中にベイビーシッターのまねごとをしている。兄と義姉の血をひく、すこしも日本人に見えない子のめんどうを見ている。
 いつごろからか、私のほうを見なくなった兄に、それでも私は日本語をつかう。兄と話すときには、きっと義姉にも、もちろん夫にも通じないことばを私はつかう。
 いつのまにか兄の話すことばに英語がまじるようになっても、私はかたくなに日本語でこたえて、兄とは日本語で、義姉とは英語でとつかいわける。カエデには日本語でしか話さない。兄のなかの日本の血はどんどんうすくなっていって、そのぶん私のなかでその濃度が上がっていっているような、私たちのバランスはどんどんくずれてしまっているような、そんな思いをあじわいながら、私はみずからじぶんのなかの日本語を、その純度を高めようとしている。
 それがほんとうの日本なのか、それとも私のなかでゆがめられた、もう記憶のなかにしかない蜜柑の色なのかもわからないまま、私はそれをカエデにぶつけている。日本へは行ったこともない子に、母親にもほとんどつかえないだろう日本のことばを教えこんでいる。
 洋梨の山に手をやって、私は考える。好きだった日本の梨は、最近こちらでも手に入るようになったけれど、アジア梨と呼ばれるそれは、すこし味がちがう気がする。二十世紀よりも味が淡いような気がする。私の好きだった長十郎はこのごろはあまり見かけなくなったと親が言っていた。地元だけのことだろうか、それとも全国的なものなのだろうか。親が最近よく食べるという幸水という品種は、私はまだ見たことがない。
 私のなかの日本は十五年まえの日本で、そんなものはもう、どこにもないのかもしれない。
 私がここまでこだわっているのは、いったい何なのだろう。
 私はなにを求めているのだろう。だれに、求めているのだろう。
 洋梨の山のとなりに檸檬の山があるのは、彩りを考えられてのことだろうか。子どもの歩みにあわせてカートを押しながら、私は積みあげられている檸檬を下のほうからひとつ、抜きだしてみたくなる。山はくずれるだろうか。きっと店員が時間をかけて積んだだろうきれいなピラミッド型、それがあっさりくずれて通路に散るだろうか。そうしたら、私は――。

 うしろからついてきていた足音が、ふいにリズムをくずした。
 ふりかえると、カエデがまた、しゃがみこんでいる。いや、うずくまって、足首をおさえている。
 「どうしたの、足」
 くじいたのだろうか。足をくじく、と言ってもわからないかもしれない。そんな、よけいなことを考えてことばがとぎれた。いや、うつむいた顔の、その表情が似ていた、似すぎていて、ことばがつづかなかった。
 母親似だと思っていたカエデのそのときの目は父親そのものだった。
 カエデのなかに、その名前にしかなかったはずの日本が、その血がそこにあった。
 兄の顔がそこにあった。
 そのいっとき、傷ついていないはずのカエデの足もとから、血がながれているのが見えた。その色が見えた気がした。
 手を貸してやると、つかまって立つ、その指先の力に私は思わず手をふりほどきそうになる。兄の血をひいているこの子は、私の手をにぎったまま、ためすように足首をまわして、それから私を見あげて、くすぐったそうに笑った。その顔はもう母親に似ている。
 また、歩きはじめる。私の腰のあたりに、カエデの髪がゆれている。
 この子のなかをながれている血はいったいどんな色をしているのだろう。
 私のなかをながれている血は、いったいどんな色をしているというのだろう。おなじ親から枝わかれして、私たちふたりにながれこんだ血は、やがてべつの血とまざりあってこの子にたどりついた。
 のばした手を、その細い髪にくぐらせる。ひきかけた汗が、まだわずかにぬくもりをのこして、細い髪をしめらせている。その顔を見ないように私はカエデの髪をなぶる。
 私はふりかえる。さっき、カエデがころんだところ、そのすぐそばにバケツがおいてあって、わきに清掃中の札があった。缶詰売場のほうへ向かいながら、
 「掃除中だったんだね。水こぼれてたのかな」
 「ああ、水? spillして‥‥んー‥‥」
 「そう、水がこぼれて」
 「ちゃんと掃除、なんていう、あの‥‥ホーキで床、しなきゃだめ」
 「箒じゃなくて、あれはモップ。そうだね、ちゃんと床みがかなきゃね。きれいにみがいて、ぴかぴかにして。でもきれいすぎたらまた、すべってころぶかも」
 「また? no!」
 カエデのほおが赤くなる。やさしい叔母にからかわれて。
 「ぴかぴかにみがいたら、またカエデころぶよ。すてんって」
 だから気をつけなね。そう言ってやる。言いながら、ほどいてしまいたい手の、にぎりしめられているカエデの、私の手にまといつく指の、その熱に私はことばをつづけずにいられない。
 「足だいじょうぶ?」
 うん。髪をはずませるいきおいでカエデは頷く。
 手をひいてやりながら、私はもういちど、さっきカエデがころんだあそこに足が向いている。まだ水にぬれている、あの床に。あのつるつるのリノリウムの上を、この子にもういちど、歩かせたい。
 私はカエデを泣かせたいのだろうか。
 それとも、あの兄の顔をみたいのだろうか。
 足が、とまる。
 つながれていた手をほどく。
 カート押すから。そう言って、両手でカートを押しはじめる。レジへむかって。
11/07/16 20:26更新 / blueblack

TOP | 感想 | RSS

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.34d