ビクターの犬2
佐和は部屋にはいるとまずステレオをつける。たいていは入れたままになっているCDを、なによりさきにつける。それから鞄をおいて上着を脱いで、そうしてステレオのちかく、定位地をみつけてすわりこむ。足をなげだして腕をだらりとおろして、首をわずかにかしげる。右耳を、スピーカーが縒りだす音の細いすじみちを、いちばんたしかにとらえられるところにもってゆく。
音量は、ほとんど聴こえないくらいに落とすのがいい。そのほうがいろんなかすかな音をいっしょけんめい聴こうとするぶん、音がひとつひとつたしかに耳にはいってくるような気がする。鼓膜をかすめるかけらをひとつひとつひろいあつめて、息つぎの、ほんとうはマイクがひろっていないかもしれない音までも聞きのがさないくらいにずっと音だけを追いかけるのがいい。追いつめないようにじっくり、くりかえしくりかえし聴くうちに、歌手のくせがわかってくる、息つぎのタイミングや、ことばをうたうときのくちびるや舌のかたちが見えてくる、どの音をつよく、よわく発音するかが聞こえてくる気がする。
それから、佐和はCDにあわせてうたう。ちいさな、じぶんにしか聞こえない声でうたう。知らない国のことばを、じぶんの耳にはいってくるとおりにくりかえす。意味をなさない音のつらなりを、意味をなさないまま、ながれこんでくる感情をそのままくりかえす。
知らないことばは、知らないままくりかえし、くりかえすうちにひとつの旋律になる。旋律はくりかえすうちにひとつの曲になる。
知らないことばで歌われる曲は、いつまでたってもなんの思いもつたえることがない。
そこが、好きだ。
佐和はみんなに愛されていた。それは佐和も知っていた。とうさんもかあさんもじいちゃんもばあちゃんも、だれも佐和をぶったりどなりつけたり家から追いだしたりしなかった。それどころか、佐和のために食事をつくり、服がちいさくなれば新しいのを買ってくれ、学校へもやってくれた。
佐和もみんなのことが好きだった。なんとかしてうまくやってゆきたかった。どの家にゆくことがきまっても、いちどだってごねたり泣いたりしなかった。
どの家でだって、いちどだって、わがままを言ったりまえの家とくらべたりしなかった。
どの家でだって、佐和は泣いたことがなかった。
どこでだってどんなことがあったって、いちどだって泣いておとなをふり向かせたりしなかった。
佐和は体の痛みにつよい。痛みを感じないわけではなくて、ただ、痛いことが苦痛にむすびつかない。
佐和はしょっちゅう、そこらのものにつまづいてころんだり、机のかどにぶつけたり、カッターを取りおとして足を傷つけたりする。佐和のからだには、じぶんの不注意でつけた切り傷や痣がいくつもついている。さきのが癒えないうちにつぎの傷をつくる。おおきい傷もちいさい傷も、いくつもおなじように腕や足にのこっている。
ちょっとのことでは消毒したりばんそうこうを貼ったりしないので、血が服をよごすこともある。そんなとき、佐和は服をぬがないで、布地にしみ出てくる血を見ていることがある。ずくん、ずくんとうずく痛みにあわせて、じわりとひろがる血を見ていることがある。
傷はたしかに痛いのに、痛いままにしておく佐和のことを、生存本能だか防衛本能だかがこわれていると言ったのがクラスメートだったかだれだったか、佐和はおぼえていない。マゾヒスト、とわけもわからず言ったのがだれだったか、佐和は気にしてもいない。気をひくために無意識のうちに注意力が散漫になっているのではないかと自信なげに教師が言ったのを、とうさんは失礼だと怒っていたけれど、佐和はそれならそれでだれかがそばにいるときにやるのに、と思っただけだった。
怪我をするのはひとりでいるときがおおい。じぶんひとりしかいないときに馬鹿なことをして、だれかが帰ってくるころにはそんなことがあったのも忘れていることがおおい。ひとがいると気をはっていられるのが、ひとりでいるとそれができなくなることがおおい。
佐和は、じぶんにしか聞こえない声でうたう。CDからながれる声にあわせて、愛の歌だか別れの歌だか知らないまま、耳のとらえる旋律をそのままにくりかえす。
佐和は、じぶんのためにだけ、うたう。ほかにだれもいない家の、ほかにだれもいない部屋で、じぶんの耳だけが、やっととらえるくらいの音量で、うたう。
佐和を抱きしめるひとはもういない。十四の女の子を、足もとのおぼつかない子どもをあやすように抱くひとはいない。それどころか、おなじ部屋にいても、ソファの両端に、なるべく体をふれさせないくらいに気をつかって浅くこしかけている。とうさんも、にいさんも。
だから佐和は食事がおわると、すぐに部屋にこもる。じぶんのほかにだれもいない部屋で、じぶんを抱くこともしないで、ひざをかかえることもしないで、ただビクターの犬のように両腕をだらんとさげて、足をなげだして、そうしてただじっと、CDの歌う声を聴く。
学校で美術の時間に小刀を手のひらにつきさしたのは、うしろでふざけていた子が佐和の背中につきあたってきたからで、とくに佐和が不注意だったわけではない。そんな傷をつくったのもたまたま佐和だったから、それも佐和のいつもの怪我でかたづいてしまった。それならそれでかまわない。だいいち、そのときも佐和より周りの子のほうがさわいでいた。
ぶつり、と皮膚を裂く感触をあじわったのも、つめたい刃がさしこんできたとき肉にわずかな抵抗をおぼえたのも、それまで体のうちがわで流れていた血が皮膚のやぶれたところから手のひらに丸くもりあがってきて、手首を越えてするりと腕につたい、ななめに線をひいて、つぎの瞬間にぱたり、と机にこぼれたのをだれよりさきに見たのも、その、ほんのいっとき痛みをうち消したくすぐったさにぴく、とふるえたのも佐和なのに、さいしょに叫んだのはとなりにいた子だった。
叫んだのもさわいだのも、あわてたのも周りの子で、机がよごれたねとつぶやいた佐和の声はきっとだれにも聞こえなかった。
みんなきゃあきゃあとさわいでいた。たしかに、切ったのではなく突いたのだったから、傷は見ためより深くて血がなかなかとまらなかったけれど、血がとまったあとも、傷がふさがってからも、しばらくは手をひらいたりにぎったりするたびに皮膚がひきつれて、皮膚のすぐ下の一点が脈拍にあわせて痛みの信号を佐和に送ってきていたのも、そのまわりの肉が、水を吸うスポンジが体に痛みをしみこませるようにじくじくとひろげてゆき、にぶくうすめた疼きを培養していたのも、痛みがいくらかうすれたあとも、むずがゆさがながいこと消えなかったのも佐和以外のだれも知らない。知らないひとだけがさわぐのにも佐和はもうなれていて、いまさらどうとも思わない。
いつまでものこる痛みとむずがゆさは、傷が消えたあともそこに傷があったことを忘れないための、おぼえがきのようなものでしかないことを佐和は知っている。それがなければ傷のことなど、怪我をしたつぎの瞬間に忘れてしまうためにあることを知っている。
さわぎたてればさわいだぶん、こわくなくなってゆくものなのかもしれない。
周りの子を見ていると、そう思うことがある。怖いね痛そうだねといちど唱えるごとに、どこかしら安心した顔つきになってゆく子たちを見ていると、この子たちの目のまえで手を突いたのは、教室のなかで高まっていたなにかの力が、たまたま佐和のうかつなところを突いて、皮膚をつきやぶって血がながれだしたように、どろりと流れだしてきただけなのかもしれない、と佐和は思って、でもそんなことはだれにも言わない。
佐和は、家ではじぶんの部屋でしか怪我をしない。とうさんやにいさんの見ているところではなにも起こらない。部屋でじっとしているうち、いつのまにか足がしびれていて、それを忘れていて立ちあがったひょうしにどうかする、ということがおおい。そうしてつけた傷や痣は、とうさんやにいさんにはなるべく見られないようにするから、だからふたりともほとんど気づかない。かさぶたになってからやっと気づくことがたまにあるくらいだ。色のしろい佐和の肌にはかなりめだつ紫色の痣にしても、とうさんもにいさんも佐和のことをじろじろ見たりはしないから、気づかないことのほうがおおい。
佐和のからだについている傷は、たいていは佐和ひとりのものだ。それがついてから治るまで、佐和だけがそれを知っている。だれにも気づかれないように、いつもひとりでその痛みを、いつかうすれて消えてゆくまでを、いつもひとりでおいかけている。
そうしていなければ忘れてしまう。
傷のことも、怪我をしたじぶんのことも。
じぶんのことも。佐和はすぐに忘れてしまう。
佐和は部屋でおなじCDをくりかえし聴いて、CDにあわせて歌をうたう、でもじぶんがなにを歌っているのか知らない。うつむきかげんに声を出して、じぶんのひざのあたりにむかって歌をつむいで、それになんの意味もないことを、そのことばを知らないじぶんにはなんの意味もないことを知っている。そしてきっと、じぶんの歌っている曲の、その国のことばを知っているひとが佐和の歌うのを聴いても、きっと意味が通じないだろうということも知っている。佐和がそこに意味をつむいでいない以上、それがスペイン語であったとして、たとえそこにスペイン人がいて佐和の歌うのを聴いていても、それがスペイン語だなんて思わないだろう。
それは、怪我をしても痛みを苦痛に変換しない佐和のからだのようなものだ。痛いという感覚は佐和の感情をゆらすことがない。流れる血を見ても、それをぬぐうのは家具をよごしたくないだけで、消えかけている痣をつよくつねってみても、痛いという感覚は、ただそこにあるだけで、佐和になにも教えてくれない。
だから佐和の不注意は治らないし、よくつまづく家具の配置をかえることも思いつかない。片耳がわるいこともあってバランスをとるのがへたな佐和は、階段ののぼりおりや、洗濯物のとりいれなどといったちょっとしたことにもめまいを起こしやすいのだけれど、とうさんもにいさんもそれに気づいていないし、佐和自身もふらついて手をすべらせて、荷物を足のうえに落としても、あ、またやった、と思うだけだ。
風呂場の引き戸に足の指をはさんで爪を割ったときも、涙がにじんだのは反射でしかなかった。
痛みの回路が悲しみの感情に直結していたのは、たぶんじぶんでも覚えていないような子どものころのことだったのだろうと佐和は思う。そのころはよく泣いていたような気がする。歳上の子にからかわれたといっては泣き、走っていてころんだといっては泣いていたような気がする。それがほんとうにあったことだったのか、いまではもう覚えていない。佐和の涙はいつからか、感情からでなく、傷口からながれる血とかわらない、思いがけない怪我をしたときに反射的にこぼれるものでしかなくなっている。
いま、CDを聴いているときだけ、佐和は泣いていることがある。
それは痛みではない。苦しみでもない。ただ、涙がながれていることがある。
意味もわからないことばを歌う声を聴いていて、涙がながれていることにはなんの意味もない。だから佐和は安心して涙を流していられる。声もたてずに、ただ歌っているうちに、歌いつづけていられなくなって、ぼろぼろとなんの意味もない涙をこぼしていることがある。
そうして、意味をなさない涙をながしながら佐和は考えている。いつのころからか、思いつづけている。
もう、決めている。
高校に入ったら家を出よう。
寮のある学校に行こう。学校の寮にはいって、そうしてもう家族とは、一緒には暮らさないでいよう。
そうして、十五の誕生日になにがほしいと訊かれたら。
部屋に──鍵を、つけてもらおう。
音量は、ほとんど聴こえないくらいに落とすのがいい。そのほうがいろんなかすかな音をいっしょけんめい聴こうとするぶん、音がひとつひとつたしかに耳にはいってくるような気がする。鼓膜をかすめるかけらをひとつひとつひろいあつめて、息つぎの、ほんとうはマイクがひろっていないかもしれない音までも聞きのがさないくらいにずっと音だけを追いかけるのがいい。追いつめないようにじっくり、くりかえしくりかえし聴くうちに、歌手のくせがわかってくる、息つぎのタイミングや、ことばをうたうときのくちびるや舌のかたちが見えてくる、どの音をつよく、よわく発音するかが聞こえてくる気がする。
それから、佐和はCDにあわせてうたう。ちいさな、じぶんにしか聞こえない声でうたう。知らない国のことばを、じぶんの耳にはいってくるとおりにくりかえす。意味をなさない音のつらなりを、意味をなさないまま、ながれこんでくる感情をそのままくりかえす。
知らないことばは、知らないままくりかえし、くりかえすうちにひとつの旋律になる。旋律はくりかえすうちにひとつの曲になる。
知らないことばで歌われる曲は、いつまでたってもなんの思いもつたえることがない。
そこが、好きだ。
佐和はみんなに愛されていた。それは佐和も知っていた。とうさんもかあさんもじいちゃんもばあちゃんも、だれも佐和をぶったりどなりつけたり家から追いだしたりしなかった。それどころか、佐和のために食事をつくり、服がちいさくなれば新しいのを買ってくれ、学校へもやってくれた。
佐和もみんなのことが好きだった。なんとかしてうまくやってゆきたかった。どの家にゆくことがきまっても、いちどだってごねたり泣いたりしなかった。
どの家でだって、いちどだって、わがままを言ったりまえの家とくらべたりしなかった。
どの家でだって、佐和は泣いたことがなかった。
どこでだってどんなことがあったって、いちどだって泣いておとなをふり向かせたりしなかった。
佐和は体の痛みにつよい。痛みを感じないわけではなくて、ただ、痛いことが苦痛にむすびつかない。
佐和はしょっちゅう、そこらのものにつまづいてころんだり、机のかどにぶつけたり、カッターを取りおとして足を傷つけたりする。佐和のからだには、じぶんの不注意でつけた切り傷や痣がいくつもついている。さきのが癒えないうちにつぎの傷をつくる。おおきい傷もちいさい傷も、いくつもおなじように腕や足にのこっている。
ちょっとのことでは消毒したりばんそうこうを貼ったりしないので、血が服をよごすこともある。そんなとき、佐和は服をぬがないで、布地にしみ出てくる血を見ていることがある。ずくん、ずくんとうずく痛みにあわせて、じわりとひろがる血を見ていることがある。
傷はたしかに痛いのに、痛いままにしておく佐和のことを、生存本能だか防衛本能だかがこわれていると言ったのがクラスメートだったかだれだったか、佐和はおぼえていない。マゾヒスト、とわけもわからず言ったのがだれだったか、佐和は気にしてもいない。気をひくために無意識のうちに注意力が散漫になっているのではないかと自信なげに教師が言ったのを、とうさんは失礼だと怒っていたけれど、佐和はそれならそれでだれかがそばにいるときにやるのに、と思っただけだった。
怪我をするのはひとりでいるときがおおい。じぶんひとりしかいないときに馬鹿なことをして、だれかが帰ってくるころにはそんなことがあったのも忘れていることがおおい。ひとがいると気をはっていられるのが、ひとりでいるとそれができなくなることがおおい。
佐和は、じぶんにしか聞こえない声でうたう。CDからながれる声にあわせて、愛の歌だか別れの歌だか知らないまま、耳のとらえる旋律をそのままにくりかえす。
佐和は、じぶんのためにだけ、うたう。ほかにだれもいない家の、ほかにだれもいない部屋で、じぶんの耳だけが、やっととらえるくらいの音量で、うたう。
佐和を抱きしめるひとはもういない。十四の女の子を、足もとのおぼつかない子どもをあやすように抱くひとはいない。それどころか、おなじ部屋にいても、ソファの両端に、なるべく体をふれさせないくらいに気をつかって浅くこしかけている。とうさんも、にいさんも。
だから佐和は食事がおわると、すぐに部屋にこもる。じぶんのほかにだれもいない部屋で、じぶんを抱くこともしないで、ひざをかかえることもしないで、ただビクターの犬のように両腕をだらんとさげて、足をなげだして、そうしてただじっと、CDの歌う声を聴く。
学校で美術の時間に小刀を手のひらにつきさしたのは、うしろでふざけていた子が佐和の背中につきあたってきたからで、とくに佐和が不注意だったわけではない。そんな傷をつくったのもたまたま佐和だったから、それも佐和のいつもの怪我でかたづいてしまった。それならそれでかまわない。だいいち、そのときも佐和より周りの子のほうがさわいでいた。
ぶつり、と皮膚を裂く感触をあじわったのも、つめたい刃がさしこんできたとき肉にわずかな抵抗をおぼえたのも、それまで体のうちがわで流れていた血が皮膚のやぶれたところから手のひらに丸くもりあがってきて、手首を越えてするりと腕につたい、ななめに線をひいて、つぎの瞬間にぱたり、と机にこぼれたのをだれよりさきに見たのも、その、ほんのいっとき痛みをうち消したくすぐったさにぴく、とふるえたのも佐和なのに、さいしょに叫んだのはとなりにいた子だった。
叫んだのもさわいだのも、あわてたのも周りの子で、机がよごれたねとつぶやいた佐和の声はきっとだれにも聞こえなかった。
みんなきゃあきゃあとさわいでいた。たしかに、切ったのではなく突いたのだったから、傷は見ためより深くて血がなかなかとまらなかったけれど、血がとまったあとも、傷がふさがってからも、しばらくは手をひらいたりにぎったりするたびに皮膚がひきつれて、皮膚のすぐ下の一点が脈拍にあわせて痛みの信号を佐和に送ってきていたのも、そのまわりの肉が、水を吸うスポンジが体に痛みをしみこませるようにじくじくとひろげてゆき、にぶくうすめた疼きを培養していたのも、痛みがいくらかうすれたあとも、むずがゆさがながいこと消えなかったのも佐和以外のだれも知らない。知らないひとだけがさわぐのにも佐和はもうなれていて、いまさらどうとも思わない。
いつまでものこる痛みとむずがゆさは、傷が消えたあともそこに傷があったことを忘れないための、おぼえがきのようなものでしかないことを佐和は知っている。それがなければ傷のことなど、怪我をしたつぎの瞬間に忘れてしまうためにあることを知っている。
さわぎたてればさわいだぶん、こわくなくなってゆくものなのかもしれない。
周りの子を見ていると、そう思うことがある。怖いね痛そうだねといちど唱えるごとに、どこかしら安心した顔つきになってゆく子たちを見ていると、この子たちの目のまえで手を突いたのは、教室のなかで高まっていたなにかの力が、たまたま佐和のうかつなところを突いて、皮膚をつきやぶって血がながれだしたように、どろりと流れだしてきただけなのかもしれない、と佐和は思って、でもそんなことはだれにも言わない。
佐和は、家ではじぶんの部屋でしか怪我をしない。とうさんやにいさんの見ているところではなにも起こらない。部屋でじっとしているうち、いつのまにか足がしびれていて、それを忘れていて立ちあがったひょうしにどうかする、ということがおおい。そうしてつけた傷や痣は、とうさんやにいさんにはなるべく見られないようにするから、だからふたりともほとんど気づかない。かさぶたになってからやっと気づくことがたまにあるくらいだ。色のしろい佐和の肌にはかなりめだつ紫色の痣にしても、とうさんもにいさんも佐和のことをじろじろ見たりはしないから、気づかないことのほうがおおい。
佐和のからだについている傷は、たいていは佐和ひとりのものだ。それがついてから治るまで、佐和だけがそれを知っている。だれにも気づかれないように、いつもひとりでその痛みを、いつかうすれて消えてゆくまでを、いつもひとりでおいかけている。
そうしていなければ忘れてしまう。
傷のことも、怪我をしたじぶんのことも。
じぶんのことも。佐和はすぐに忘れてしまう。
佐和は部屋でおなじCDをくりかえし聴いて、CDにあわせて歌をうたう、でもじぶんがなにを歌っているのか知らない。うつむきかげんに声を出して、じぶんのひざのあたりにむかって歌をつむいで、それになんの意味もないことを、そのことばを知らないじぶんにはなんの意味もないことを知っている。そしてきっと、じぶんの歌っている曲の、その国のことばを知っているひとが佐和の歌うのを聴いても、きっと意味が通じないだろうということも知っている。佐和がそこに意味をつむいでいない以上、それがスペイン語であったとして、たとえそこにスペイン人がいて佐和の歌うのを聴いていても、それがスペイン語だなんて思わないだろう。
それは、怪我をしても痛みを苦痛に変換しない佐和のからだのようなものだ。痛いという感覚は佐和の感情をゆらすことがない。流れる血を見ても、それをぬぐうのは家具をよごしたくないだけで、消えかけている痣をつよくつねってみても、痛いという感覚は、ただそこにあるだけで、佐和になにも教えてくれない。
だから佐和の不注意は治らないし、よくつまづく家具の配置をかえることも思いつかない。片耳がわるいこともあってバランスをとるのがへたな佐和は、階段ののぼりおりや、洗濯物のとりいれなどといったちょっとしたことにもめまいを起こしやすいのだけれど、とうさんもにいさんもそれに気づいていないし、佐和自身もふらついて手をすべらせて、荷物を足のうえに落としても、あ、またやった、と思うだけだ。
風呂場の引き戸に足の指をはさんで爪を割ったときも、涙がにじんだのは反射でしかなかった。
痛みの回路が悲しみの感情に直結していたのは、たぶんじぶんでも覚えていないような子どものころのことだったのだろうと佐和は思う。そのころはよく泣いていたような気がする。歳上の子にからかわれたといっては泣き、走っていてころんだといっては泣いていたような気がする。それがほんとうにあったことだったのか、いまではもう覚えていない。佐和の涙はいつからか、感情からでなく、傷口からながれる血とかわらない、思いがけない怪我をしたときに反射的にこぼれるものでしかなくなっている。
いま、CDを聴いているときだけ、佐和は泣いていることがある。
それは痛みではない。苦しみでもない。ただ、涙がながれていることがある。
意味もわからないことばを歌う声を聴いていて、涙がながれていることにはなんの意味もない。だから佐和は安心して涙を流していられる。声もたてずに、ただ歌っているうちに、歌いつづけていられなくなって、ぼろぼろとなんの意味もない涙をこぼしていることがある。
そうして、意味をなさない涙をながしながら佐和は考えている。いつのころからか、思いつづけている。
もう、決めている。
高校に入ったら家を出よう。
寮のある学校に行こう。学校の寮にはいって、そうしてもう家族とは、一緒には暮らさないでいよう。
そうして、十五の誕生日になにがほしいと訊かれたら。
部屋に──鍵を、つけてもらおう。
11/07/13 12:24更新 / blueblack
戻る
次へ