怪盗×その怪盗に盗まれた少年
八神小枝子41歳、可憐な名前に似合わない巨体の持ち主である彼女の愛読書は
「週刊女の性」と「ラバーライフ」(エロエロ系レディコミ雑誌)。
昼メロと芸能ゴシップをこよなく愛する小枝子は当然「怪盗青い薔薇」
の噂も知っていた。ワイドショーで取り上げられた事があるからだ。
美術品から老舗ウナギ屋の門外不出の「秘伝のタレ」まで
盗めないものはないという「怪盗青い薔薇」。
予告状には常に青い花びらが添えられ、唯一の目撃者によれば
25、6の細身の男で、「そりゃもう、男前」だという。
だが彼女の家に白い真四角の封筒が届けられた時に、
彼女は誰かのイタズラかDMだろうと思った。夫に秘密のヘソクリ以外に
彼女の家には怪盗が盗みそうな物は無かったからだ。
少なくとも彼女はそう思っていた。
新月の晩、御宅の磨かれざる宝石を戴きに参上します
━━怪盗青い薔薇
「八神小枝子様」と表書きされた封筒から
爽やかな甘い香のする白いカードを抜き出した時に、青い花びらが
ハラリと舞い落ちたが、小枝子はそれには気付かなかった。
青いインクのメッセージは外国の言葉のような飾り文字で綴られていて、
「最近のDMは手が込んでるのねぇ」と呟いて
小枝子は封筒ごとカードをゴミ箱に捨てた。
新月の晩、小枝子はいつも通り単身赴任中の夫にメールを打った後
床に就いた。一旦眠りに就くと彼女は象が踏んでも目が覚めない。
「呆気無さ過ぎるのも興醒めだな・・・」
闇の中に、ひっそりと独りごちる男がいた。八神家の屋根に降り立ち
マントをひらめかせているが彼の勇姿の観客はいない。
男の傍らに16、7の少年がいるが、彼は意識を失っている。
グッタリした少年が屋根からずり落ちないように足で押さえながら、
青く染めた薔薇を口に銜えて、男はしばらくポーズを取っていたが、
やがて諦めて雨樋に手をかけて、カギのかかっていない窓を音も無く開けて
部屋に忍び込んだ。主のいない部屋は年頃の男の子の物らしく
雑然としていて、いたく男の気にいらなかった。
「机の上に置いたのでは、ゴチャゴチャしていて見落としかねないな・・・」
男の手には、小枝子に送ったのと同じ白い封筒があった。
磨かれぬ宝石はただの石。御宅の原石を暫しお預かりします。
丹精込めて磨き上げ、2週間以内にはお返ししますので、
くれぐれも警察には通報されぬ様。
━━怪盗青い薔薇
考えた末、男はパソコンのモニターにテープで封筒を張り付けた。
あまり美しく無いが、少なくとも目に付く。
しかしこのカードは小枝子に読まれる事はなかった。
息子の外泊は珍しくなく、小枝子は気にしもしなかったからである。
1日目
(腹減った)
空腹から目を覚ました信博は、目の前にあった菓子パンに
むしゃぶりついた。4個ペロリと平らげ、ジュースを一気飲みしてから、
始めて自分の置かれた状況を思い出す。
(そうだ、俺、部屋でCD聞いてて・・・)
好きなアーティストの限定版アルバムをクラスメートに拝み倒して借りて、
3曲目まで聞いた所で、窓にコツコツと石が当たるような音がして、
何だろうと思って振り返って、・・・それからどうしたんだっけ?
思い出せない。
いや、それよりここはどこだ?
信博は辺りを見回した。自分の部屋じゃない事は確かだ。
寝心地の良いベッドのシーツは糊がきいているし、どっしりした机も
その隣の天井まである本棚も全然見覚えない。本棚に並んでる本は
函入りの小難しそうな全集にハードカバー。どこを取っても
信博の部屋とは似ても似つかない。
「お早う、信博。いい夢を見たかい?」
突然部屋に男の声が響いて、信博は飛び上がった。
よく見ると天井に小型のスピーカーらしき物がある。
「誰?ここどこ?」
それ程年輩では無さそうな、深い声が答えた。
「ここは君の部屋だよ」
「ウソ!」
「嘘な物か。君の家ではないがね。君のために用意した君の部屋だ。
その証拠に壁紙の色もカーテンの色も君の好きな青だろう?
本も、今はつまらないかも知れないが、いずれ好きになるだろう」
「お前・・・何?ストーカー?」
声は気分を害した風もなく軽く笑った。
「そうだとしたらどうする?」
信博は絶句した。
もし声の主がストーカーなら下手に刺激したら殺されるかもしれない。
誘拐という可能性も考えたが、信博の家は普通のサラリーマン家庭だし、
常識で考えてこんな部屋を用意したりするのはおかしい。
「俺を・・・どうするつもり?」
「どうもしないよ。ただ何日か、ここにいて欲しいだけだ。
君の体には傷1つ付けないと誓う」
「そんな・・・信じろって?」
「信じられないなら信じなくてもいいよ」
それきり声は黙ってしまった。信博が何を言っても答えは返って来ない。
その内照明が落とされた。
「お寝み、信博」
2日目
パッと部屋の照明がついて閉じられた瞼の上から光が信博を刺した。
朝・・・?
何だかいい匂いがすると思ったら、机の上におにぎりと焼き魚らしき皿と
缶のお茶が置かれていた。
毒が入っていたらと一瞬考えたが、最初の日にもう菓子パンを食べてしまっている。
今更だ。
皿に手を伸ばしながら、信博は監視カメラに気が付いていた。
スピーカーの反対側に、これも小型のカメラが設置されている。
どこかで、誰かが、自分の一挙手一投足を見ている。
何の為に・・・?
3日目
「なあ、家に返してくれよ!」
答えの返って来ない壁に向かって信博が嘆願する。
誰も訪れない一人きりの部屋で、信博は気が狂いそうだった。
繰り返し繰り返し、彼は嘆願した。
「ここから出せよ・・・」
4日目
食事のタイミングの良さに、信博は薬を使われている事を確信した。
眠っている間に食事が運ばれて来るので、何度か寝た振りをしたのだが、
そんな時には扉が開く事はない。
必ず、信博が完全に寝ている時にしか食事が運ばれる事はないのだ。
周到過ぎる。一体何が目的でこんな事をするんだろう。
「見てるんだろう。どっかで、俺を笑ってるんだろう!出せよここから!」
スピーカーに、カチッとマイクのスイッチが入る音がした。
「まだ、駄目だ」
「まだってどういう事だよ。いつ出してくれんだよ!」
「今ではない」
カチッ。
スイッチが切られ、それっ切り信博の言葉に答えは返って来る事がなかった。
5日目
机の中には白い紙の束と万年筆が1本入っていた。
シャーペンしか使った事のない信博は、万年筆のキャップを開けて
白い紙にぐるぐると円を描いてみた。恐ろしく書き味がいい。
「獄中日記でもつけろってかよ・・・」
万年筆を投げ出し、本棚に向かう。ハードカバーを1冊抜き出して、
パラパラとページを捲ってみた。聞いた事のない作家だったが、意外に読みやすい。
時間を忘れて読みふけり、気が付いたら本棚の中にある彼の小説を
次から次へと読んでいた。
「そっか・・・テレビもないもんな・・・」
6日目
「なあ、何のつもりな訳?」
答えの返って来ない壁に向かって信博は問いかける。
「俺を教育し直そうとか考えてんの?食い物と、紙と万年筆と、本と・・・何かの実験?」
「実験ではないよ」
久し振りに聞こえて来た声は優しかった・・・優しい、と感じてしまった自分に
信博は戸惑う。コイツは監禁犯なのに。そうだ。今の自分はマトモな精神状態じゃない。
監禁犯を好きになるとかって話があったじゃないか。何とか症候群って。
「実験じゃなかったら賭け?俺が何日で懐くかとか、それか何日でアンタの
好みに仕立て上げれるか誰かと賭けてんの?」
「君をモルモットにするつもりはないよ。賭けもしてない。
君は『マイフェアレディー』じゃない。ただ、」
「・・・ただ?」
「君が知らない事が、世の中には沢山ある。それを知った時に、
きっと君は今より綺麗になる」
「綺麗に?・・・ってアンタ、ホモ?俺の事どーにかしよーとか思ってる訳?」
声はおかしそうに・・・心底楽しそうに、笑った。
「違うよ。ホモではないよ。君に、そういう意味で興味が全く無いとは言わないがね」
「ないの、あるの、どっち?」
「さあ、どちらだろう」
7日目
本棚の本は読み尽くした。紙も使い切った。
そう思う度に、新しい本が補充され、紙が足され、食事も用意され━━━
終わりが、ない。
信博は、徐々に焦りを覚えていた。
いつまでこうしているのだろう。自分はいつからこんな生活をしていたんだろう。
8日目
「助けて、くれ・・・よ」
9日目
照明を落とされた闇の中、声が聞こえる。
「やっと言ったね。信博。君に足りない物は、圧倒的な『餓え』、だよ。
それが足りない事にも気付かずにいただろう。
でもここに来て、雑音に惑わされずに毎日を過ごして、
どれだけ本を読んでも、どれだけ僕の用意した物を消費しても、
いや、消費すればしただけ、君は餓えをハッキリ知ったただろう。
信博。君に足りないのはね。狂おしい程求める心、だよ━━━」
10日目
信博が目を覚ますと、扉が開いていた。
何かの間違いかと思ったが、それでも恐る恐る扉の向こう側を伺う。
「・・・どういう事だよ」
答えはない。
「もう用無しなのかよ!・・・お前の、ゲームだか何だか知らないけど、
俺を巻き込んで・・・っ!
━━━出てけって、事、なのかよ・・・っ!」
ほぼ2週間振りに見る息子の顔に、今までとは違う色が浮かんでいる事に、
八神小枝子が気付く事はなかった。
「あの、八神君。・・・つきあってる子、いる?」
「・・・いないけど、ごめん。誰とも付き合う気、ないから」
信博は、見上げて来る女の子の目を真直ぐ見て答えた。
少女は一瞬傷付いた目をしたが、フッと笑って、「いい。ごめんね。ありがとう」
と言って、クルリと身を翻して駆けて行った。
信博は少女の背中を見送りながら、胸をキュッと押さえた。
ポケットには、万年筆が差してある。
あの日、部屋を出て行く時に、つい持って出て来てしまった━━━。
インクは鮮やかなピーコックブルー。
近所の文房具屋には使い捨てのブルーブラックのカートリッジしか置いてなくて、
信博は同じ色のインクボトルを探してデパートまで行った。
ボトルからインクを吸い上げるのに慣れるまで、何回か指を青く染めた。
そうやって万年筆が信博にしっくり馴染む頃、信博はやっと
自分の中の内にある『餓え』を知った。
「足りない物とか言って、アンタが・・・作り上げたんじゃんかよ・・・。
あんなに近くにいて・・・あんなに・・・遠くて・・・俺、
アンタの・・・顔も・・・知らねえ・・・」
やっと気付いたね。
その晩、信博の家に、白い真四角の封筒が届いた。
今回は表に「八神信博様」と書かれていた。
新月の晩、光り輝く宝石を頂戴に上がります
━━怪盗青い薔薇
しかし、信博がこの予告状を見る事はなかった。
母、八神小枝子が郵便物を家に持ち込んでテーブルに置いた際に、
過ってお茶をこぼし、証拠隠滅のため彼女が息子に渡さず、
コッソリ廃棄してしまったからである。
そんな訳で、新月の晩の全く予期せぬ訪問者に、
信博は心臓が口から出るほど驚く事となる━━━。
「週刊女の性」と「ラバーライフ」(エロエロ系レディコミ雑誌)。
昼メロと芸能ゴシップをこよなく愛する小枝子は当然「怪盗青い薔薇」
の噂も知っていた。ワイドショーで取り上げられた事があるからだ。
美術品から老舗ウナギ屋の門外不出の「秘伝のタレ」まで
盗めないものはないという「怪盗青い薔薇」。
予告状には常に青い花びらが添えられ、唯一の目撃者によれば
25、6の細身の男で、「そりゃもう、男前」だという。
だが彼女の家に白い真四角の封筒が届けられた時に、
彼女は誰かのイタズラかDMだろうと思った。夫に秘密のヘソクリ以外に
彼女の家には怪盗が盗みそうな物は無かったからだ。
少なくとも彼女はそう思っていた。
新月の晩、御宅の磨かれざる宝石を戴きに参上します
━━怪盗青い薔薇
「八神小枝子様」と表書きされた封筒から
爽やかな甘い香のする白いカードを抜き出した時に、青い花びらが
ハラリと舞い落ちたが、小枝子はそれには気付かなかった。
青いインクのメッセージは外国の言葉のような飾り文字で綴られていて、
「最近のDMは手が込んでるのねぇ」と呟いて
小枝子は封筒ごとカードをゴミ箱に捨てた。
新月の晩、小枝子はいつも通り単身赴任中の夫にメールを打った後
床に就いた。一旦眠りに就くと彼女は象が踏んでも目が覚めない。
「呆気無さ過ぎるのも興醒めだな・・・」
闇の中に、ひっそりと独りごちる男がいた。八神家の屋根に降り立ち
マントをひらめかせているが彼の勇姿の観客はいない。
男の傍らに16、7の少年がいるが、彼は意識を失っている。
グッタリした少年が屋根からずり落ちないように足で押さえながら、
青く染めた薔薇を口に銜えて、男はしばらくポーズを取っていたが、
やがて諦めて雨樋に手をかけて、カギのかかっていない窓を音も無く開けて
部屋に忍び込んだ。主のいない部屋は年頃の男の子の物らしく
雑然としていて、いたく男の気にいらなかった。
「机の上に置いたのでは、ゴチャゴチャしていて見落としかねないな・・・」
男の手には、小枝子に送ったのと同じ白い封筒があった。
磨かれぬ宝石はただの石。御宅の原石を暫しお預かりします。
丹精込めて磨き上げ、2週間以内にはお返ししますので、
くれぐれも警察には通報されぬ様。
━━怪盗青い薔薇
考えた末、男はパソコンのモニターにテープで封筒を張り付けた。
あまり美しく無いが、少なくとも目に付く。
しかしこのカードは小枝子に読まれる事はなかった。
息子の外泊は珍しくなく、小枝子は気にしもしなかったからである。
1日目
(腹減った)
空腹から目を覚ました信博は、目の前にあった菓子パンに
むしゃぶりついた。4個ペロリと平らげ、ジュースを一気飲みしてから、
始めて自分の置かれた状況を思い出す。
(そうだ、俺、部屋でCD聞いてて・・・)
好きなアーティストの限定版アルバムをクラスメートに拝み倒して借りて、
3曲目まで聞いた所で、窓にコツコツと石が当たるような音がして、
何だろうと思って振り返って、・・・それからどうしたんだっけ?
思い出せない。
いや、それよりここはどこだ?
信博は辺りを見回した。自分の部屋じゃない事は確かだ。
寝心地の良いベッドのシーツは糊がきいているし、どっしりした机も
その隣の天井まである本棚も全然見覚えない。本棚に並んでる本は
函入りの小難しそうな全集にハードカバー。どこを取っても
信博の部屋とは似ても似つかない。
「お早う、信博。いい夢を見たかい?」
突然部屋に男の声が響いて、信博は飛び上がった。
よく見ると天井に小型のスピーカーらしき物がある。
「誰?ここどこ?」
それ程年輩では無さそうな、深い声が答えた。
「ここは君の部屋だよ」
「ウソ!」
「嘘な物か。君の家ではないがね。君のために用意した君の部屋だ。
その証拠に壁紙の色もカーテンの色も君の好きな青だろう?
本も、今はつまらないかも知れないが、いずれ好きになるだろう」
「お前・・・何?ストーカー?」
声は気分を害した風もなく軽く笑った。
「そうだとしたらどうする?」
信博は絶句した。
もし声の主がストーカーなら下手に刺激したら殺されるかもしれない。
誘拐という可能性も考えたが、信博の家は普通のサラリーマン家庭だし、
常識で考えてこんな部屋を用意したりするのはおかしい。
「俺を・・・どうするつもり?」
「どうもしないよ。ただ何日か、ここにいて欲しいだけだ。
君の体には傷1つ付けないと誓う」
「そんな・・・信じろって?」
「信じられないなら信じなくてもいいよ」
それきり声は黙ってしまった。信博が何を言っても答えは返って来ない。
その内照明が落とされた。
「お寝み、信博」
2日目
パッと部屋の照明がついて閉じられた瞼の上から光が信博を刺した。
朝・・・?
何だかいい匂いがすると思ったら、机の上におにぎりと焼き魚らしき皿と
缶のお茶が置かれていた。
毒が入っていたらと一瞬考えたが、最初の日にもう菓子パンを食べてしまっている。
今更だ。
皿に手を伸ばしながら、信博は監視カメラに気が付いていた。
スピーカーの反対側に、これも小型のカメラが設置されている。
どこかで、誰かが、自分の一挙手一投足を見ている。
何の為に・・・?
3日目
「なあ、家に返してくれよ!」
答えの返って来ない壁に向かって信博が嘆願する。
誰も訪れない一人きりの部屋で、信博は気が狂いそうだった。
繰り返し繰り返し、彼は嘆願した。
「ここから出せよ・・・」
4日目
食事のタイミングの良さに、信博は薬を使われている事を確信した。
眠っている間に食事が運ばれて来るので、何度か寝た振りをしたのだが、
そんな時には扉が開く事はない。
必ず、信博が完全に寝ている時にしか食事が運ばれる事はないのだ。
周到過ぎる。一体何が目的でこんな事をするんだろう。
「見てるんだろう。どっかで、俺を笑ってるんだろう!出せよここから!」
スピーカーに、カチッとマイクのスイッチが入る音がした。
「まだ、駄目だ」
「まだってどういう事だよ。いつ出してくれんだよ!」
「今ではない」
カチッ。
スイッチが切られ、それっ切り信博の言葉に答えは返って来る事がなかった。
5日目
机の中には白い紙の束と万年筆が1本入っていた。
シャーペンしか使った事のない信博は、万年筆のキャップを開けて
白い紙にぐるぐると円を描いてみた。恐ろしく書き味がいい。
「獄中日記でもつけろってかよ・・・」
万年筆を投げ出し、本棚に向かう。ハードカバーを1冊抜き出して、
パラパラとページを捲ってみた。聞いた事のない作家だったが、意外に読みやすい。
時間を忘れて読みふけり、気が付いたら本棚の中にある彼の小説を
次から次へと読んでいた。
「そっか・・・テレビもないもんな・・・」
6日目
「なあ、何のつもりな訳?」
答えの返って来ない壁に向かって信博は問いかける。
「俺を教育し直そうとか考えてんの?食い物と、紙と万年筆と、本と・・・何かの実験?」
「実験ではないよ」
久し振りに聞こえて来た声は優しかった・・・優しい、と感じてしまった自分に
信博は戸惑う。コイツは監禁犯なのに。そうだ。今の自分はマトモな精神状態じゃない。
監禁犯を好きになるとかって話があったじゃないか。何とか症候群って。
「実験じゃなかったら賭け?俺が何日で懐くかとか、それか何日でアンタの
好みに仕立て上げれるか誰かと賭けてんの?」
「君をモルモットにするつもりはないよ。賭けもしてない。
君は『マイフェアレディー』じゃない。ただ、」
「・・・ただ?」
「君が知らない事が、世の中には沢山ある。それを知った時に、
きっと君は今より綺麗になる」
「綺麗に?・・・ってアンタ、ホモ?俺の事どーにかしよーとか思ってる訳?」
声はおかしそうに・・・心底楽しそうに、笑った。
「違うよ。ホモではないよ。君に、そういう意味で興味が全く無いとは言わないがね」
「ないの、あるの、どっち?」
「さあ、どちらだろう」
7日目
本棚の本は読み尽くした。紙も使い切った。
そう思う度に、新しい本が補充され、紙が足され、食事も用意され━━━
終わりが、ない。
信博は、徐々に焦りを覚えていた。
いつまでこうしているのだろう。自分はいつからこんな生活をしていたんだろう。
8日目
「助けて、くれ・・・よ」
9日目
照明を落とされた闇の中、声が聞こえる。
「やっと言ったね。信博。君に足りない物は、圧倒的な『餓え』、だよ。
それが足りない事にも気付かずにいただろう。
でもここに来て、雑音に惑わされずに毎日を過ごして、
どれだけ本を読んでも、どれだけ僕の用意した物を消費しても、
いや、消費すればしただけ、君は餓えをハッキリ知ったただろう。
信博。君に足りないのはね。狂おしい程求める心、だよ━━━」
10日目
信博が目を覚ますと、扉が開いていた。
何かの間違いかと思ったが、それでも恐る恐る扉の向こう側を伺う。
「・・・どういう事だよ」
答えはない。
「もう用無しなのかよ!・・・お前の、ゲームだか何だか知らないけど、
俺を巻き込んで・・・っ!
━━━出てけって、事、なのかよ・・・っ!」
ほぼ2週間振りに見る息子の顔に、今までとは違う色が浮かんでいる事に、
八神小枝子が気付く事はなかった。
「あの、八神君。・・・つきあってる子、いる?」
「・・・いないけど、ごめん。誰とも付き合う気、ないから」
信博は、見上げて来る女の子の目を真直ぐ見て答えた。
少女は一瞬傷付いた目をしたが、フッと笑って、「いい。ごめんね。ありがとう」
と言って、クルリと身を翻して駆けて行った。
信博は少女の背中を見送りながら、胸をキュッと押さえた。
ポケットには、万年筆が差してある。
あの日、部屋を出て行く時に、つい持って出て来てしまった━━━。
インクは鮮やかなピーコックブルー。
近所の文房具屋には使い捨てのブルーブラックのカートリッジしか置いてなくて、
信博は同じ色のインクボトルを探してデパートまで行った。
ボトルからインクを吸い上げるのに慣れるまで、何回か指を青く染めた。
そうやって万年筆が信博にしっくり馴染む頃、信博はやっと
自分の中の内にある『餓え』を知った。
「足りない物とか言って、アンタが・・・作り上げたんじゃんかよ・・・。
あんなに近くにいて・・・あんなに・・・遠くて・・・俺、
アンタの・・・顔も・・・知らねえ・・・」
やっと気付いたね。
その晩、信博の家に、白い真四角の封筒が届いた。
今回は表に「八神信博様」と書かれていた。
新月の晩、光り輝く宝石を頂戴に上がります
━━怪盗青い薔薇
しかし、信博がこの予告状を見る事はなかった。
母、八神小枝子が郵便物を家に持ち込んでテーブルに置いた際に、
過ってお茶をこぼし、証拠隠滅のため彼女が息子に渡さず、
コッソリ廃棄してしまったからである。
そんな訳で、新月の晩の全く予期せぬ訪問者に、
信博は心臓が口から出るほど驚く事となる━━━。
11/07/16 19:59更新 / blueblack