白雪姫
昔むかしあるところに、りっぱな伯爵がありました。伯爵にはうつくしい夫人があり、ふたりはとても愛しあっておりましたが、子どもはありませんでした。夫人が若いころに重い病を得、主治医にもおそらく子どもをもつことは無理だろうと言われていたのです。
ふたりとも子どもをほしがっておりましたが、伯爵は夫人を思いやって、子どもをほしがるそぶりを見せることはありませんでした。
ある冬のこと、伯爵と夫人が馬車で屋敷に帰るとちゅう、すっかり雪におおわれた山にさしかかりました。
高い山を三つこえたところで、夫人が伯爵に言いました。
「この山の雪のように白い肌の子がさずけられれば、どんなにすばらしいことでしょう」
伯爵は夫人をあわれに思いましたが、なにも言いませんでした。
やがて馬車は森に入りました。高い木が陽をさえぎります。
森をぬけたところで、馬車の上を三羽の黒鶫が鳴きながら飛んでゆきました。夫人は言いました。
「あの黒鶫たちのような黒い髪と瞳の子がさずけられれば、どんなにすばらしいことでしょう」
馬車が屋敷に着きました。ふたりは馬車をおり、屋敷に入ろうとしましたが、そのとき伯爵夫人が柊の木のまえで足をとめました。夫人は紅い実をひとつぶ取って言いました。
「この柊の実のように紅いくちびるの子がさずけられれば、どんなにすばらしいことでしょう」
伯爵は、夫人の肩をそっと抱いて屋敷に入りました。
ところが、それからほどなくして、夫人がみごもったのです。ふたりはこのことをとてもよろこび、冬の神にさずかったのだからと、生まれてくる子に「雪」のつく名をつけようと相談しておりました。
そして、あくる年の冬、待ちに待った子が生まれました。ほんとうにその子は、あの山の雪よりも白い肌をしており、黒鶫の羽よりも黒い髪と瞳をもち、柊の実よりもっと紅いつややかなくちびるをしておりました。伯爵夫妻は子どもの誕生をとてもよろこびました。
しかしひとつだけ、こまったことがありました。生まれてきた子は男の子だったのです。
じつは、この国の王には子どもが四人ありましたが、みな女の子であったため、王は養子を望んでおりました。娘のひとりと結婚させて国を継がせようというのです。生まれた子が男だと知れれば王にその子をさしださねばならないでしょう。もし断れば、わるくすれば謀叛をくわだてているとされ、子どももろとも殺されてしまうかもしれませんでした。
ふたりは思いなやんだすえ、子どもに「白雪」と名をつけて女の子として育てることにしました。
さて、白雪はとても愛らしい子に育ちました。まっしろな肌はどれだけ陽のもとにいても灼けることがなく、まるで冬の雪のように、みずから光りかがやくようにさえ見えましたし、きれいに編みこまれた長い黒い髪はつややかで、まるい黒い瞳はいつもなにかしら楽しみを見つけてくるくるときらめいておりましたし、そして子どもらしくぽっちゃりしたくちびるは、いつでも紅く、朝露にぬれているようでした。
伯爵夫妻は白雪をとても愛し、とても大切に育てました。白雪が男の子であると知られないように、ほかの子とあそぶことを禁じておりましたが、そのかわりに白雪がほしいと言ったものは惜しみなく与えました。
めったに人前に出ることのない白雪でしたが、それでもその愛らしさは国じゅうの評判になっておりました。ごくまれに、城のもよおしなどで王じきじきに招ばれたときに見られる白雪のすがたは見るものの息をとめさせずにはおきませんでした。国じゅうの、いえ近隣の国からさえも、まだ幼い白雪に縁談がもちかけらるほどでしたが、伯爵夫妻はそれを受けるどころかますます白雪を人目にふれさせないようにするものですから、いつか白雪はその美しさのあまり魔王に魅入られて、伯爵夫妻がそれを阻止しようとして人前に出さないのだと噂が立つほどでした。
もっとも当人はそんな大人たちのうわさ話など知るよしもなく、ただ、友達がいないことをさびしく思うばかりでした。
「おとうさま、おかあさま、なぜわたくしはほかの子とあそんではいけないのですか?」
むじゃきにたずねてくる白雪になにも言えず、伯爵と夫人はいつも悲しい瞳で答えるばかりでした。それがいくどかつづくうち、やがて白雪はたずねることをしなくなりました。
人にほとんど接することを許されない白雪の遊びあいては、いつでも森の動物たちでした。淡い色のドレスに身をつつみ、いつも白雪はひとりきり、猟師さえも足を踏みいれることのすくない森の奥深くで小鳥や野兎、狐といった生き物とたわむれておりました。おさないころから森をおそれることもなく、動物たちと森を駆け、喉がかわけば森の奥ふかくにひっそりわき出ている泉の水をのみ、つかれれば木陰にねむるのでした。
白雪が七歳になった年の春に、王に待ちに待った世継が生まれ、国中がこれを祝いました。もちろん伯爵夫妻も、きっとだれよりもこの報せをよろこびました。これで、白雪が王の養子に取られる心配がなくなったのですから。
けれど、だからといってすぐに白雪を男の子に戻すわけにはゆきませんでした。なにしろこれまでの長いあいだ王をたばかっていたのですから、もし知れればただではすみません。ふたりには、これまでどおり白雪を女の子としてあつかうしかありませんでした。
そうして幾年かがすぎてゆきました。ある朝、伯爵は白雪を呼び、その黒い瞳をじっと見てたずねました。
「友がほしいか?」
もうすっかりあきらめていたことをいきなり言われて、なんと答えたものか迷って白雪は父を見あげました。
「おまえももう十二になる。いろいろなことを話したり、いっしょに森を駆けたりするあいてがほしいか?」
もういちど伯爵にたずねられ、こんどははっきり白雪はうなずきました。
「はい」
「おまえがここを離れれば、おまえがわたしたちの子でなくなれば、おまえは自由に生きられる」
白雪は知らなかったのですが、やっと五つになった王子とじぶんとのあいだに縁談がもちあがっていました。これこそ断るわけにはゆかず、悩んだすえに、伯爵夫妻は白雪を重い病といつわって、こんどこそ白雪を男の子にもどそうとしたのです。
伯爵は夫人と話しあった計画を白雪に聞かせました。
「わたしたちのむすめは療養のために遠国に行ったことにしようと思う。そうして、甲斐なくして死んだことにすればいい。おまえは、いまはまだ国じゅうのものが白雪としてのおまえを知っているが、五年もたてば背ものびて顔つきもからだつきも変わるだろう。いますぐにはむりだが、みなが白雪を忘れたころに戻ってくるがいい。わたしたちは、おまえを養子として迎えようと思う」
そうしてその日、伯爵家から王家へ、白雪が病のために遠国の医者のもとへやられたという連絡がゆきました。急な病の報告をいぶかしんだ王は使いをさしむけましたが、たしかに伯爵家には白雪はすでにおりませんでした。
そのころ白雪は、長かった髪を肩のあたりで切りそろえ、村の子どもが着るような粗末な服に身をつつんで森におりました。いつもは裾のひろがったやわらかい布のドレス姿の少女しか見ていなかった森の動物たちは、はじめはおどろいていたようでしたが、やがていつものように白雪のもとへやってきて、その足にからだをすりよせたりしはじめました。
白雪は、ほんとうはすぐにでも街に出て友達を得たかったのですが、素性を知られないようにしばらくは森を出ないで、王の兵士たちに見つからないようにと父に言いふくめられていたので、しかたなくぼんやりと森におりました。夜の闇にまぎれて森を奥へ奥へとすすむうち、けもの道のむこうのほうに光があるのを見つけました。ゆくあてもない白雪は、その光をたよりにすすみました。
やがて白雪は、一軒の、とてもちいさな家を見つけました。小屋といったほうがいいような木の家です。これもちいさな煙突からは細く煙がたなびいていて、ひとが暮していることをうかがわせました。こんな森のふかくに暮しているのはどんなひとだろう。
そのとき扉がぱっとひらき、なかから白雪とほとんど背丈のかわらない人が出てきました。背丈は白雪と変わりませんが、手足はおどろくほど細く、またからだつきをみるとどうやら白雪よりずっと歳をとっているようでした。そのひとは白雪を見ると、おどろいたようすもなくにっこり笑いました。
「ようこそ、うつくしいお嬢さん。横暴な王様から逃れていらしたね?」
「お嬢さんじゃありません。わたしは女ではありませんから」
「いまはそうでしょうが、あなたはいつも森で動物たちといっしょにいた白雪さんでしょう? 髪を切ってしまわれたんですね。よく似合っておられたのにもったいない」
なんと答えたものか考えていると、そのひとは扉をいっぱいに開けて白雪をまねきよせました。
「まあ、こんなところで突っ立っていてもはじまらない。どうぞ中へ。仲間を紹介しますよ」
白雪が家の中に入ってみると、そこには似たような背格好のひとが六人もいました。扉をあけたひととあわせると七人、なんだかいやな目つきで白雪をじろじろと見ています。
「はじめまして、といってもわたしたちはあなたのことをよく存知あげていますよ、白雪さん。わたしたちはこの森の小人です。いつもあなたがいらしていたのを見ていましたからね」
自己紹介もそこそこに、小人たちはひそひそ話しあって、白雪をちらちら見て笑いあったりしています。ひとりが叫ぶように言いました。
「おやおや、いつもあのいまいましい啄木鳥といっしょにいるかわい子ちゃんじゃないか! なんて見すぼらしいかっこうをしているんだろう! 家に送りとどけてやったほうがいいんじゃないか?」
「いや、それよりも城へ連れていってやるべきだと思うね、きれいなおべべを着せてやってさ」
「ああ、そうだな。病気のはずの白雪がぴんぴんしてるって王様が知ったら、きっと楽しいことになるよ」
そんなことを、にやにや笑いながら口々に言いあう小人たちに白雪はぞっとしました。そればかりでなくかれらは、細い、節くれだった手で白雪の腕をつかみ、頬をなであげてくるのです。吐き気をこらえて白雪は言いました。
「おねがいします。王様には黙っていてください」
小人たちはたがいに顔を見あわせ、こそこそとささやきあっています。
「なんでもしますから」
ふむ、とひとりがうなずき、白雪に言いました。
「そうだね。もしあなたが、わたしたちの小さな家政婦さんになってくれて、家のことをしてくれたら――わたしたちの服をつくろってくれたり、食事のしたくをしてくれたり、身のまわりのことをしてくれるのなら、ここにおいてあげてもいいですよ」
「なにせ七人もいると、片づけても片づけても散らかすやつもいるからね」
「それはおれのことかい」
「だれとも言わないさ。ねえ、どうです白雪さん。ここから王様のいらっしゃるお城はそんなに遠くもないんですよ。それにわたしたちはもっぱら山で仕事をしてるんですが、山で取れた輝石をお城へ持っていったりもしますんでね。ここいらになにがあってだれがいるなんてことは自然に耳に入ってきますから、もしあなたがどこへ逃げても、きっとわたしたちのだれかの目にとまらないわけにゆかないと思いますよ」
「王様のふるまってくださる酒はうまくって。酒の席で聞かれたら、だれがどこにいるかなんて、つい口をすべらしちまうんですよ、いつも」
選択の余地はありませんでした。にやにや笑いをうかべる小人たちの言うとおり、白雪はひざまづいてその足にくちづけをするしかなかったのです。
小人たちは、けっして無茶なことを言いつけたりはしませんでした。もともと器用なたちの白雪は家の仕事はなんなくこなしましたし、そのことでなにか言われることはありませんでした。
けれどかれらは、夜ごとに白雪にちょっかいをかけ、おまけにだれがいちばん白雪をよろこばせられるかなどといった趣味のわるい賭けをして楽しむことさえあったのです。それだけは白雪には耐えがたいことでした。それまでは人とあまり話をすることもなく、ましてや素肌にふれられることなどなかったので、白雪はいつまでたっても慣れることができませんでした。
それに、そんな白雪を見て、小人たちはくすくす笑うのです。
それでも、日がたつうちに白雪は追われていることを忘れるようになっていました。三年がすぎるころには、小人たちが意地悪なだけではないこともわかってきていました。七人みなが本心では白雪をひとりじめしたいと思っていて、牽制しあうこともあって、それがかえって楽なくらいでした。
ある日、白雪がいつものとおり泉に水をくみにゆくと、かたわらの木に馬がつながれておりました。毛並みがよく、りっぱな鞍をつけているところをみると、どうやら貴族の馬のようです。こんなところにまで人が入ってくるなどめずらしいことだったので、白雪はふと人恋しいような気になって水桶をもったまま馬をぼうっと眺めておりました。馬はおとなしく主人を待っているようでしたが、そこへ木の枝からぼとりと蛇が落ちてきたものですからたまりません。ひと声いななくとぐいと体をそらし、そのひょうしに手綱がするりと木からはずれてしまいました。そのまま蛇から飛びすさるように体をひねると、馬はまっすぐ白雪のほうへ走ってきました。
考えるよりさきにからだがうごき、白雪は走ってくる馬に、ななめ前からひらりと飛びのりました。そのまま走りだす馬のたてがみにひっかかっていた蛇をひっつかみ遠くへ投げすてると、鞍に片手をかけもう一方の手を首にそえ、白雪はみごとに馬を乗りこなしながらなんとかなだめようとしました。
はじめのうちは首をめちゃくちゃに振りながらあばれていた馬がやがておとなしくなり、ぶるると荒い息をつきはじめたのを見て、白雪は馬を誘導してさきほどの木のところへもどりました。
ところが、水のほとりの木には少年がひとり立っておりました。十にはなっていないだろうと思われるその少年は、金茶の髪をいらだたしげに振りながら木の根に蹴りつけておりましたが、馬が近づいてきたのを見るとあきらかにほっとした顔をして、それから馬上の白雪をみとめて眉をよせました。
少年は言いました。
「それは私の馬だ。返してもらおう」
もともとそんなつもりは毛頭なかった白雪は、おとなしく馬から降りると少年に頭をさげました。いい服をきた子です。金茶の髪が光をうけて、まるで太陽のようだと白雪は思いました。どうやら位の高い家の子どもだろうと見当をつけて、白雪は用心ぶかく目をあわせないようにして言いました。
「失礼いたしました。この馬の頭の上に蛇が降ってきて、おどろいて走りだしてしまったようです」
少年はまじまじと白雪を見つめました。
「――おまえ、男か、女か?」
白雪は心のなかでそっとため息をつきました。女の恰好をしないようになってもう何年にもなるのに、いまだにこんなことを言われてしまうのはまったく不本意でした。水汲みも薪割りも白雪の仕事で、だのに腕に筋肉もつかずいつまでたっても日灼けもしないのはどうやら体質らしいのであきらめていましたが、それにしても十五にもなればもう女に見られることはなかろうと思っていたのです。
まだ女に見られるということは、まだ森から出られないということを意味していましたから、白雪はがっかりしながら、それでも目のまえの少年にたずねてみました。
「どちらとお思いですか」
少年は腕組をして考えこんでいます。その、うつむきかげんのようすがかわいらしく、白雪はすこし機嫌をなおして、少年のまえにかがんで目の高さをあわせてやりました。
「よくごらんください。わたくしは男に見えますか、女に見えますか」
あごをつかんでくいと持ちあげ、あやすように言うと少年はおどろいたように目をまるくしました。淡い茶色のきれいな瞳が自分をみつめています。じっと見ていると、少年は我にかえったように白雪の手をふりはらいました。
「無礼者。私をだれと心得る」
ちいさなからだでせいいっぱいの虚勢をはるこの少年がおもしろくて、白雪はくすっと笑いました。少年がむっとしたように腰の剣に手をかけます。その手をうえからぐっとおさえこんで、白雪は少年の顔をのぞきこむようにしました。
いくら細いとはいっても家の仕事できたえたからだですし、あいてはまだ十にもならないような子ども、なんなくおさえつけることができます。くやしそうにこちらを見あげる茶色の目に、白雪はにっこりとほほえみかけました。
「あなたこそ、わたくしを何者とお思いですか。わたくしはこの森の精、男でも女でもありません。そしてわたくしが仕えるのはこの森の主、七人の小人たちです」
「小人ごときになにができる。私は――」
「かれらにかかれば、あなたのような子どもひとり、この森から出さずにおくくらいわけもありません」
白雪は、少年のほおをすっとなでて言いました。
「もうお帰りなさい、かわいいひと。人の子がこんな森の奥まで来るものではありません。なるほどあなたは剣もあり足の速い馬もお持ちだが、しかし小人たちの呪いにかかれば目があいたままものが見えなくなり、そのきれいな瞳からは森をぬける道がかくされてしまいましょう」
白雪は、少年を抱きあげると放りなげるように馬に乗せました。少年はくやしそうにくちびるを噛みしめておりましたが、やがて手綱を引き馬を走らせて去ってゆきました。
「人間の匂いがする」
白雪の腹をなでながら小人のひとりが言いました。答えようとしたとたんにべつのひとりの手をたまらないところに感じ、白雪は声をつまらせます。のけぞろうとした腰をおさえつけて、より深くをさぐりながら小人が笑います。
「がまんなさることないのに、ねえ白雪さん」
「いやいや、このひとはこうでなくっちゃ」
笑い声がいくつも聞こえてくるのを払うように白雪は頭をふりました。
「あなたがいつまでたっても穢れをしらない乙女のようでいらっしゃるから、わたしたちもいつまでも愉しめますよ」
白雪は吐息をもらしながら、なんとか襲ってくる熱をやりすごそうとします。そのすがたがかえって小人たちをあおっていることに気づくだけの余裕はありません。
「こんなにわたしたちがかわいがってあげているのに、やっぱり人間のほうがいいみたいですね、このひとは。しかも王子様ときたものだ」
「まだ子どもだというのに」
「いや。もうすこし育てば、きっと親にまさる美丈夫になることだろうよ。あれは王様よりも強くなる」
ぼんやりしてくる頭で、白雪は考えます。あれが王子か。あの子どもが生まれるまでわたしは女で、生まれたら生まれたで、こんどはあやうくあの子どもと結婚させられるところだったのか。
といって、白雪は王子を憎もうという気にはなれませんでした。おそらくあの子どもはなにも知らないのでしょう。ゆるくウエーヴのかかった金茶の髪におなじ色の瞳、きらきらとかがやくようなあの子どもには、自分のようなものが世にいることなど想像のつくものではないのでしょう。いつまでたっても森を出ることもかなわず、この黒い髪の色とおなじように暗い陰に暮すものがあることなど、あの子どもはきっといつまでたっても知らないままでしょう。
「白雪さん、紅くなってきていますよ‥‥ほら、ここ。王子のことを思ってこんなふうになってしまわれて。はしたないひとだ」
小人たちになぶられながら、たしかにそのとき、白雪はあの金色にかがやく光の化身のような少年のすがたを頭に描いていたのです。
それから、王子はたびたび泉へ来るようになっておりました。
「おまえが私に呪いをかけた」
水を汲んでいる白雪にそんなことをいいます。
「おまえを見ないでいられないように」
ほんの子どものくせにこまっしゃくれた口をきく少年を、けれど白雪はうとましく思うこともなく、朝のうちのほんのみじかい逢瀬を心待ちに毎日をすごすようになっておりました。
「おまえの髪は夜の闇よりも黒い」
背伸びして髪にふれてこようとする王子の手を、けれど白雪はするりとすりぬけて逃げます。
「わたくしに触れてはなりません。人の匂いをさせて戻れば、きっとわたくしの主は、あなたがかれらの財宝を奪いにやってきたと思うことでしょう」
じっさい小人たちはとても聡く、白雪がすこしでもふだんとちがう素振りを見せれば一晩かけてでも何があったのか聞きださずにはおかないのでした。それでも白雪は、王子に会いたい気持をおさえることはできず、けっきょく毎日水を汲むことを口実に泉に足をはこびました。
森で暮す白雪が王子に出会ってから、いくど目かの冬がやってきておりました。
その日も白雪は泉で桶に水を汲み、甕に移しておりました。かたわらでは王子がそんな白雪をじっと見ています。もうずいぶん背ものび力もついたというのに、いくど言っても白雪は手伝わせてくれないのです。白雪のしろい肌はつめたい水にさらされ、指さきが紅くなっています。頬もいくらか紅潮して、うなじに乱れた髪がまつわりついています。ふうと息をついて顔をあげたそのすがたに、王子は目をうばわれました。
白雪が王子を見て、にっこりと笑いました。王子はごくりとつばをのみ、白雪にたずねました。
「寒くはないのか」
「慣れています」
そうは言っても、いつもは紅いくちびるが紫いろになっています。そのくちびるから王子は目がはなせなくなり――
「――つめたい」
王子のことばにすこし遅れて、白雪は口を両手でおさえました。
その口に口で、王子ははじめて触れたのです。
王子は馬に草を食ませながら、目のまえで黒髪のうつくしい若者が泉の水を汲んでいるのを見つめます。あの甕がいっぱいになったら、きっとかれは言うでしょう。
「わたくしはこれで帰ります。あなたももうお戻りなさい。道に迷わないようにお気をつけて」
いくつになってもきゃしゃな愛人は、それでもいつまでたっても王子のことを子どものようにあつかいます。もう目の高さもほとんどかわらないというのに。このひとにとって、自分はいつまでたっても十の子どもなのでしょう。
どこにそんな力があるのかと思うような細い腕が甕を持ちあげるのを見るともなしに見ながら、王子はじれったいような気持をおさえることができません。そのしろい肌に跡がのこるくらい乱暴に腕をつかみ、ひきよせてかき抱くほかに王子にできることはありません。
「わたくしは、森を出るわけには参りません」
王子から顔をそむけ、白雪はくりかえします。ふれるまでは、こんなにしろい肌なのだからとても冷たいのではないかと思ってさえいた、ほんとうはとても熱い白雪のからだが腕のなかでもがくのを、くちづけでだまらせるほかに王子にできることはありません。
どれほどに強く抱いても、白雪はかたくななまでに森を離れることをこばみます。わけを問うても、わたくしはこの国の王を裏切ったのですと弱々しく言うばかりの白雪に、それ以上たずねることもできず、王子はいつも、歯噛みをする思いで小人たちのもとへ白雪を返すしかありませんでした。そうして、いつも白雪の消えたあと、あのちいさな家でいとしいひとが七人になにをされているのかを考えると、胸のうちで油の煮えたぎるような思いを味わうのでした。
「白雪さんは年々うつくしくなりますね」
「会ったばかりのころは女の子と見まがうようなかわいらしい子だったが、このごろではなまめかしさが何とも言えない」
「ほんとうに。王子につまみぐいさせるのが惜しいくらいですよ」
口々に言う小人たちのことばが、その手指よりもきつく白雪をさいなみます。かれらのことばとその動きに自分がさらされるたびに、それに応えてしまうたびに己がどんどん穢れてゆくように思われるのです。
季節は、夏をむかえようとしておりました。
ある朝、白雪が泉へゆくと、王子が思いつめた目をして立っておりました。白雪をみとめると、抱きよせてキスをして、その耳にささやきました。
「私のために‥‥死んでくれるか?」
いつのまにか自分より背の高くなっていた金色の太陽の化身のような少年を白雪が見あげます。王子は目をそらし、くちびるを噛みました。そうして、このたび十四歳になったかれに王位がゆずられることになったと話してきかせました。
「私が即位すれば、おまえもだれに憚ることなく森から出られる。おまえの親をおびやかすものはもういなくなる。そうだろう?」
それは白雪が長いあいだ夢に見ていたことでした。この森を出て自由に生きる。伯爵家に戻って愛する父と母とともに暮す。いまの王が退位すれば、たしかに小人が何をいっても親にわざわいがふりかかることはないのです。
忘れかけていた夢に白雪はほおを紅くして王子を見あげました。けれど王子は苦しそうに自分をみつめるばかりです。そのわけがわかっている白雪は、しんぼうづよく待っておりました。ぽつりと、王子が言いました。
「――けれど、それには条件がある」
「ご結婚なさるのですね」
王子の目が見ひらかれました。
「お相手はもう決まっていらっしゃる?」
王子は首をふりました。候補は数人いて、近いうちにひとりをえらばねばならないこと。来月の即位式までに婚約しなければならないこと。王子の口から語られるそれらを、白雪は王子の腕のなかでじっと聞いておりました。
「私が即位すれば、おまえは自由になれる。そうだろう? この森を出て‥‥生まれた家に戻ろうと、べつのどこかで暮そうと。だれと、暮そうと。――けれど」
くちびるをしめらせて、王子はつづけます。
「それは私には耐えがたい」
いつのまにか、王子の両手は白雪の首にかかっておりました。
「私だけが、おまえを自由にできる。おまえの手を離すことで、おまえ以外の者と――女と添うことで」
王子の指に力が入ります。白雪はあらがうこともせず、じっと王子を見つめておりました。
「おまえが小人たちとともにいることが許せない。おまえが私以外のだれといることも許せない。おまえを王宮の牢獄にずっと幽閉しておきたい――私だけのために、生かしておきたい。それがかなわないというのなら、この手で殺してやりたい」
白雪が意識を失う直前に、かすむ目でみた王子は、とてもやさしい目をしておりました。
かすかに呼びかける声を感じて白雪は目をひらこうとしました。まぶたはひどく重く、頭はがんがんします。うすぐらい部屋には、かたわらにだれかいるようです。
背をささえられ抱えおこされ、つめたい水をふくまされます。夜なのでしょうか、目をひらいてもなにも見えません。けれどからだを包んでくれている熱を白雪は知っておりました。
「王子」
かすれる声でささやくと、白雪を抱く腕がびくりとふるえました。長い吐息が頭の上で聞こえ、それから白雪は、きつく抱きしめられました。
「おまえは死んだ。くちびるは紅く、まるで生きているままのようだったが、息はとまり、呼んでも目をあけることはなかった。小人たちは悲しんだが、私の、おまえの遺体をひきとりたいという申し出には頷いた。私を狂人と思ったのだろう」
長い指が白雪の頬をなでました。まだ力のはいりきらない腕では、それに応えて王子の背を抱くこともかないません。
「おまえは私のために死んだ。――外に馬を用意してある。どこへでも行くがいい。おまえの望むように生きてゆけばいい」
白雪のからだは横たえられ、熱い手が、さいごに惜しむように首すじにふれて、そして離れてゆきました。
扉がひらき、また閉じる音を白雪は聞いたように思いました。
それから十日後のことです。お城で盛大なお妃えらびの舞踏会がひらかれ、国中の歳ごろのむすめと近隣の姫たちが招かれました。つぎつぎにあらわれるむすめたちは、みな思い思いの装いでなんとか王子の気をひこうとしております。けれど王子はだれに対してもおなじように、乞われれば踊りはしますが、そうでないときはただぼんやりともの思いにふけっているばかりでした。王子の頭のなかには、あの夜をかぎりに消えてしまった白雪ひとりしかなかったのです。
「踊っていただけませんか?」
おざなりな笑みをうかべて王子は顔をあげ、そのまま声もあげられませんでした。
そこに立っていたのは、こんな華やかな場にはにつかわしくない闇のように黒いドレスに身をつつんだ、忘れようもない愛しいひとだったのです。
「王子? 踊ってはいただけませんか」
白雪は作り声で王子に手をのべます。ふらふらと立ちあがり、ふるえる手でその手をつかみ、それからひと晩じゅう、王子はその手を離すことがありませんでした。
婚礼の儀はかつてないほど盛大なものでした。世界中からめずらしい宝石や織物が集められましたが、陶器のようにしろい肌の、黒い長い髪をまっすぐうしろに流した姫のまえにはどんな財宝もくすんで見えました。
その晩、眠っている王子の耳もとで呼びかける声があります。
「王子。王子」
王子が目をあけると、すっかり身支度をととのえた白雪のすがたがありました。森で会っていたころのような男のすがたです。ぼんやりする頭をふる王子に白雪は言いました。
「王子は王座をお選びになりますか、それともわたくしをお選びになりますか。わたくしは朝になるまえにここを発ちます。王位に未練がないのならともに参りましょう」
「どういうことだ」
「あなたがわたくしをあの森から解きはなってくださったように、わたくしもあなたをここから連れだしたいと思っているのです。舞踏会のときに、あなたの姉上たちも婿どのもおそろしい目であなたを見ておられました。王としてここにとどまり、あの方々と争い近隣の国とあらそう人生を送るのもあなたの生きかたでしょう。けれどわたくしには、あなたが心からそれを望んでおられるように思えない。毎日森へいらしたのは、王宮での暮しがあなたに合っていなかったからだとわたくしには思えてしかたないのです。もしそうであるなら、王子、わたくしとともにここを出て、だれもわたくしたちを知らない土地で暮しましょう。小人のいない、どこかべつの森で暮してもいいでしょう。もしあなたが王宮での暮しを選ぶのであれば、妃は急な病で死んだとおふれになってください。選ぶのはあなたです」
自分よりちいさくて見るからにはかなげなからだのどこにそんな力が、と思うようなつよい瞳で白雪は王子を見つめます。やはりこの方こそが自分の選んだあいてであったと、そのことにまちがいはなかったと、王子は気づいてほほえみました。そして白雪を抱きしめると、誓いのくちづけを送ったのです。
そうしてその日から、かれらの姿は王宮から消えました。
けれどかれらは、いまでもどこかの森にひっそりと、しあわせに暮していることでしょう。
ふたりとも子どもをほしがっておりましたが、伯爵は夫人を思いやって、子どもをほしがるそぶりを見せることはありませんでした。
ある冬のこと、伯爵と夫人が馬車で屋敷に帰るとちゅう、すっかり雪におおわれた山にさしかかりました。
高い山を三つこえたところで、夫人が伯爵に言いました。
「この山の雪のように白い肌の子がさずけられれば、どんなにすばらしいことでしょう」
伯爵は夫人をあわれに思いましたが、なにも言いませんでした。
やがて馬車は森に入りました。高い木が陽をさえぎります。
森をぬけたところで、馬車の上を三羽の黒鶫が鳴きながら飛んでゆきました。夫人は言いました。
「あの黒鶫たちのような黒い髪と瞳の子がさずけられれば、どんなにすばらしいことでしょう」
馬車が屋敷に着きました。ふたりは馬車をおり、屋敷に入ろうとしましたが、そのとき伯爵夫人が柊の木のまえで足をとめました。夫人は紅い実をひとつぶ取って言いました。
「この柊の実のように紅いくちびるの子がさずけられれば、どんなにすばらしいことでしょう」
伯爵は、夫人の肩をそっと抱いて屋敷に入りました。
ところが、それからほどなくして、夫人がみごもったのです。ふたりはこのことをとてもよろこび、冬の神にさずかったのだからと、生まれてくる子に「雪」のつく名をつけようと相談しておりました。
そして、あくる年の冬、待ちに待った子が生まれました。ほんとうにその子は、あの山の雪よりも白い肌をしており、黒鶫の羽よりも黒い髪と瞳をもち、柊の実よりもっと紅いつややかなくちびるをしておりました。伯爵夫妻は子どもの誕生をとてもよろこびました。
しかしひとつだけ、こまったことがありました。生まれてきた子は男の子だったのです。
じつは、この国の王には子どもが四人ありましたが、みな女の子であったため、王は養子を望んでおりました。娘のひとりと結婚させて国を継がせようというのです。生まれた子が男だと知れれば王にその子をさしださねばならないでしょう。もし断れば、わるくすれば謀叛をくわだてているとされ、子どももろとも殺されてしまうかもしれませんでした。
ふたりは思いなやんだすえ、子どもに「白雪」と名をつけて女の子として育てることにしました。
さて、白雪はとても愛らしい子に育ちました。まっしろな肌はどれだけ陽のもとにいても灼けることがなく、まるで冬の雪のように、みずから光りかがやくようにさえ見えましたし、きれいに編みこまれた長い黒い髪はつややかで、まるい黒い瞳はいつもなにかしら楽しみを見つけてくるくるときらめいておりましたし、そして子どもらしくぽっちゃりしたくちびるは、いつでも紅く、朝露にぬれているようでした。
伯爵夫妻は白雪をとても愛し、とても大切に育てました。白雪が男の子であると知られないように、ほかの子とあそぶことを禁じておりましたが、そのかわりに白雪がほしいと言ったものは惜しみなく与えました。
めったに人前に出ることのない白雪でしたが、それでもその愛らしさは国じゅうの評判になっておりました。ごくまれに、城のもよおしなどで王じきじきに招ばれたときに見られる白雪のすがたは見るものの息をとめさせずにはおきませんでした。国じゅうの、いえ近隣の国からさえも、まだ幼い白雪に縁談がもちかけらるほどでしたが、伯爵夫妻はそれを受けるどころかますます白雪を人目にふれさせないようにするものですから、いつか白雪はその美しさのあまり魔王に魅入られて、伯爵夫妻がそれを阻止しようとして人前に出さないのだと噂が立つほどでした。
もっとも当人はそんな大人たちのうわさ話など知るよしもなく、ただ、友達がいないことをさびしく思うばかりでした。
「おとうさま、おかあさま、なぜわたくしはほかの子とあそんではいけないのですか?」
むじゃきにたずねてくる白雪になにも言えず、伯爵と夫人はいつも悲しい瞳で答えるばかりでした。それがいくどかつづくうち、やがて白雪はたずねることをしなくなりました。
人にほとんど接することを許されない白雪の遊びあいては、いつでも森の動物たちでした。淡い色のドレスに身をつつみ、いつも白雪はひとりきり、猟師さえも足を踏みいれることのすくない森の奥深くで小鳥や野兎、狐といった生き物とたわむれておりました。おさないころから森をおそれることもなく、動物たちと森を駆け、喉がかわけば森の奥ふかくにひっそりわき出ている泉の水をのみ、つかれれば木陰にねむるのでした。
白雪が七歳になった年の春に、王に待ちに待った世継が生まれ、国中がこれを祝いました。もちろん伯爵夫妻も、きっとだれよりもこの報せをよろこびました。これで、白雪が王の養子に取られる心配がなくなったのですから。
けれど、だからといってすぐに白雪を男の子に戻すわけにはゆきませんでした。なにしろこれまでの長いあいだ王をたばかっていたのですから、もし知れればただではすみません。ふたりには、これまでどおり白雪を女の子としてあつかうしかありませんでした。
そうして幾年かがすぎてゆきました。ある朝、伯爵は白雪を呼び、その黒い瞳をじっと見てたずねました。
「友がほしいか?」
もうすっかりあきらめていたことをいきなり言われて、なんと答えたものか迷って白雪は父を見あげました。
「おまえももう十二になる。いろいろなことを話したり、いっしょに森を駆けたりするあいてがほしいか?」
もういちど伯爵にたずねられ、こんどははっきり白雪はうなずきました。
「はい」
「おまえがここを離れれば、おまえがわたしたちの子でなくなれば、おまえは自由に生きられる」
白雪は知らなかったのですが、やっと五つになった王子とじぶんとのあいだに縁談がもちあがっていました。これこそ断るわけにはゆかず、悩んだすえに、伯爵夫妻は白雪を重い病といつわって、こんどこそ白雪を男の子にもどそうとしたのです。
伯爵は夫人と話しあった計画を白雪に聞かせました。
「わたしたちのむすめは療養のために遠国に行ったことにしようと思う。そうして、甲斐なくして死んだことにすればいい。おまえは、いまはまだ国じゅうのものが白雪としてのおまえを知っているが、五年もたてば背ものびて顔つきもからだつきも変わるだろう。いますぐにはむりだが、みなが白雪を忘れたころに戻ってくるがいい。わたしたちは、おまえを養子として迎えようと思う」
そうしてその日、伯爵家から王家へ、白雪が病のために遠国の医者のもとへやられたという連絡がゆきました。急な病の報告をいぶかしんだ王は使いをさしむけましたが、たしかに伯爵家には白雪はすでにおりませんでした。
そのころ白雪は、長かった髪を肩のあたりで切りそろえ、村の子どもが着るような粗末な服に身をつつんで森におりました。いつもは裾のひろがったやわらかい布のドレス姿の少女しか見ていなかった森の動物たちは、はじめはおどろいていたようでしたが、やがていつものように白雪のもとへやってきて、その足にからだをすりよせたりしはじめました。
白雪は、ほんとうはすぐにでも街に出て友達を得たかったのですが、素性を知られないようにしばらくは森を出ないで、王の兵士たちに見つからないようにと父に言いふくめられていたので、しかたなくぼんやりと森におりました。夜の闇にまぎれて森を奥へ奥へとすすむうち、けもの道のむこうのほうに光があるのを見つけました。ゆくあてもない白雪は、その光をたよりにすすみました。
やがて白雪は、一軒の、とてもちいさな家を見つけました。小屋といったほうがいいような木の家です。これもちいさな煙突からは細く煙がたなびいていて、ひとが暮していることをうかがわせました。こんな森のふかくに暮しているのはどんなひとだろう。
そのとき扉がぱっとひらき、なかから白雪とほとんど背丈のかわらない人が出てきました。背丈は白雪と変わりませんが、手足はおどろくほど細く、またからだつきをみるとどうやら白雪よりずっと歳をとっているようでした。そのひとは白雪を見ると、おどろいたようすもなくにっこり笑いました。
「ようこそ、うつくしいお嬢さん。横暴な王様から逃れていらしたね?」
「お嬢さんじゃありません。わたしは女ではありませんから」
「いまはそうでしょうが、あなたはいつも森で動物たちといっしょにいた白雪さんでしょう? 髪を切ってしまわれたんですね。よく似合っておられたのにもったいない」
なんと答えたものか考えていると、そのひとは扉をいっぱいに開けて白雪をまねきよせました。
「まあ、こんなところで突っ立っていてもはじまらない。どうぞ中へ。仲間を紹介しますよ」
白雪が家の中に入ってみると、そこには似たような背格好のひとが六人もいました。扉をあけたひととあわせると七人、なんだかいやな目つきで白雪をじろじろと見ています。
「はじめまして、といってもわたしたちはあなたのことをよく存知あげていますよ、白雪さん。わたしたちはこの森の小人です。いつもあなたがいらしていたのを見ていましたからね」
自己紹介もそこそこに、小人たちはひそひそ話しあって、白雪をちらちら見て笑いあったりしています。ひとりが叫ぶように言いました。
「おやおや、いつもあのいまいましい啄木鳥といっしょにいるかわい子ちゃんじゃないか! なんて見すぼらしいかっこうをしているんだろう! 家に送りとどけてやったほうがいいんじゃないか?」
「いや、それよりも城へ連れていってやるべきだと思うね、きれいなおべべを着せてやってさ」
「ああ、そうだな。病気のはずの白雪がぴんぴんしてるって王様が知ったら、きっと楽しいことになるよ」
そんなことを、にやにや笑いながら口々に言いあう小人たちに白雪はぞっとしました。そればかりでなくかれらは、細い、節くれだった手で白雪の腕をつかみ、頬をなであげてくるのです。吐き気をこらえて白雪は言いました。
「おねがいします。王様には黙っていてください」
小人たちはたがいに顔を見あわせ、こそこそとささやきあっています。
「なんでもしますから」
ふむ、とひとりがうなずき、白雪に言いました。
「そうだね。もしあなたが、わたしたちの小さな家政婦さんになってくれて、家のことをしてくれたら――わたしたちの服をつくろってくれたり、食事のしたくをしてくれたり、身のまわりのことをしてくれるのなら、ここにおいてあげてもいいですよ」
「なにせ七人もいると、片づけても片づけても散らかすやつもいるからね」
「それはおれのことかい」
「だれとも言わないさ。ねえ、どうです白雪さん。ここから王様のいらっしゃるお城はそんなに遠くもないんですよ。それにわたしたちはもっぱら山で仕事をしてるんですが、山で取れた輝石をお城へ持っていったりもしますんでね。ここいらになにがあってだれがいるなんてことは自然に耳に入ってきますから、もしあなたがどこへ逃げても、きっとわたしたちのだれかの目にとまらないわけにゆかないと思いますよ」
「王様のふるまってくださる酒はうまくって。酒の席で聞かれたら、だれがどこにいるかなんて、つい口をすべらしちまうんですよ、いつも」
選択の余地はありませんでした。にやにや笑いをうかべる小人たちの言うとおり、白雪はひざまづいてその足にくちづけをするしかなかったのです。
小人たちは、けっして無茶なことを言いつけたりはしませんでした。もともと器用なたちの白雪は家の仕事はなんなくこなしましたし、そのことでなにか言われることはありませんでした。
けれどかれらは、夜ごとに白雪にちょっかいをかけ、おまけにだれがいちばん白雪をよろこばせられるかなどといった趣味のわるい賭けをして楽しむことさえあったのです。それだけは白雪には耐えがたいことでした。それまでは人とあまり話をすることもなく、ましてや素肌にふれられることなどなかったので、白雪はいつまでたっても慣れることができませんでした。
それに、そんな白雪を見て、小人たちはくすくす笑うのです。
それでも、日がたつうちに白雪は追われていることを忘れるようになっていました。三年がすぎるころには、小人たちが意地悪なだけではないこともわかってきていました。七人みなが本心では白雪をひとりじめしたいと思っていて、牽制しあうこともあって、それがかえって楽なくらいでした。
ある日、白雪がいつものとおり泉に水をくみにゆくと、かたわらの木に馬がつながれておりました。毛並みがよく、りっぱな鞍をつけているところをみると、どうやら貴族の馬のようです。こんなところにまで人が入ってくるなどめずらしいことだったので、白雪はふと人恋しいような気になって水桶をもったまま馬をぼうっと眺めておりました。馬はおとなしく主人を待っているようでしたが、そこへ木の枝からぼとりと蛇が落ちてきたものですからたまりません。ひと声いななくとぐいと体をそらし、そのひょうしに手綱がするりと木からはずれてしまいました。そのまま蛇から飛びすさるように体をひねると、馬はまっすぐ白雪のほうへ走ってきました。
考えるよりさきにからだがうごき、白雪は走ってくる馬に、ななめ前からひらりと飛びのりました。そのまま走りだす馬のたてがみにひっかかっていた蛇をひっつかみ遠くへ投げすてると、鞍に片手をかけもう一方の手を首にそえ、白雪はみごとに馬を乗りこなしながらなんとかなだめようとしました。
はじめのうちは首をめちゃくちゃに振りながらあばれていた馬がやがておとなしくなり、ぶるると荒い息をつきはじめたのを見て、白雪は馬を誘導してさきほどの木のところへもどりました。
ところが、水のほとりの木には少年がひとり立っておりました。十にはなっていないだろうと思われるその少年は、金茶の髪をいらだたしげに振りながら木の根に蹴りつけておりましたが、馬が近づいてきたのを見るとあきらかにほっとした顔をして、それから馬上の白雪をみとめて眉をよせました。
少年は言いました。
「それは私の馬だ。返してもらおう」
もともとそんなつもりは毛頭なかった白雪は、おとなしく馬から降りると少年に頭をさげました。いい服をきた子です。金茶の髪が光をうけて、まるで太陽のようだと白雪は思いました。どうやら位の高い家の子どもだろうと見当をつけて、白雪は用心ぶかく目をあわせないようにして言いました。
「失礼いたしました。この馬の頭の上に蛇が降ってきて、おどろいて走りだしてしまったようです」
少年はまじまじと白雪を見つめました。
「――おまえ、男か、女か?」
白雪は心のなかでそっとため息をつきました。女の恰好をしないようになってもう何年にもなるのに、いまだにこんなことを言われてしまうのはまったく不本意でした。水汲みも薪割りも白雪の仕事で、だのに腕に筋肉もつかずいつまでたっても日灼けもしないのはどうやら体質らしいのであきらめていましたが、それにしても十五にもなればもう女に見られることはなかろうと思っていたのです。
まだ女に見られるということは、まだ森から出られないということを意味していましたから、白雪はがっかりしながら、それでも目のまえの少年にたずねてみました。
「どちらとお思いですか」
少年は腕組をして考えこんでいます。その、うつむきかげんのようすがかわいらしく、白雪はすこし機嫌をなおして、少年のまえにかがんで目の高さをあわせてやりました。
「よくごらんください。わたくしは男に見えますか、女に見えますか」
あごをつかんでくいと持ちあげ、あやすように言うと少年はおどろいたように目をまるくしました。淡い茶色のきれいな瞳が自分をみつめています。じっと見ていると、少年は我にかえったように白雪の手をふりはらいました。
「無礼者。私をだれと心得る」
ちいさなからだでせいいっぱいの虚勢をはるこの少年がおもしろくて、白雪はくすっと笑いました。少年がむっとしたように腰の剣に手をかけます。その手をうえからぐっとおさえこんで、白雪は少年の顔をのぞきこむようにしました。
いくら細いとはいっても家の仕事できたえたからだですし、あいてはまだ十にもならないような子ども、なんなくおさえつけることができます。くやしそうにこちらを見あげる茶色の目に、白雪はにっこりとほほえみかけました。
「あなたこそ、わたくしを何者とお思いですか。わたくしはこの森の精、男でも女でもありません。そしてわたくしが仕えるのはこの森の主、七人の小人たちです」
「小人ごときになにができる。私は――」
「かれらにかかれば、あなたのような子どもひとり、この森から出さずにおくくらいわけもありません」
白雪は、少年のほおをすっとなでて言いました。
「もうお帰りなさい、かわいいひと。人の子がこんな森の奥まで来るものではありません。なるほどあなたは剣もあり足の速い馬もお持ちだが、しかし小人たちの呪いにかかれば目があいたままものが見えなくなり、そのきれいな瞳からは森をぬける道がかくされてしまいましょう」
白雪は、少年を抱きあげると放りなげるように馬に乗せました。少年はくやしそうにくちびるを噛みしめておりましたが、やがて手綱を引き馬を走らせて去ってゆきました。
「人間の匂いがする」
白雪の腹をなでながら小人のひとりが言いました。答えようとしたとたんにべつのひとりの手をたまらないところに感じ、白雪は声をつまらせます。のけぞろうとした腰をおさえつけて、より深くをさぐりながら小人が笑います。
「がまんなさることないのに、ねえ白雪さん」
「いやいや、このひとはこうでなくっちゃ」
笑い声がいくつも聞こえてくるのを払うように白雪は頭をふりました。
「あなたがいつまでたっても穢れをしらない乙女のようでいらっしゃるから、わたしたちもいつまでも愉しめますよ」
白雪は吐息をもらしながら、なんとか襲ってくる熱をやりすごそうとします。そのすがたがかえって小人たちをあおっていることに気づくだけの余裕はありません。
「こんなにわたしたちがかわいがってあげているのに、やっぱり人間のほうがいいみたいですね、このひとは。しかも王子様ときたものだ」
「まだ子どもだというのに」
「いや。もうすこし育てば、きっと親にまさる美丈夫になることだろうよ。あれは王様よりも強くなる」
ぼんやりしてくる頭で、白雪は考えます。あれが王子か。あの子どもが生まれるまでわたしは女で、生まれたら生まれたで、こんどはあやうくあの子どもと結婚させられるところだったのか。
といって、白雪は王子を憎もうという気にはなれませんでした。おそらくあの子どもはなにも知らないのでしょう。ゆるくウエーヴのかかった金茶の髪におなじ色の瞳、きらきらとかがやくようなあの子どもには、自分のようなものが世にいることなど想像のつくものではないのでしょう。いつまでたっても森を出ることもかなわず、この黒い髪の色とおなじように暗い陰に暮すものがあることなど、あの子どもはきっといつまでたっても知らないままでしょう。
「白雪さん、紅くなってきていますよ‥‥ほら、ここ。王子のことを思ってこんなふうになってしまわれて。はしたないひとだ」
小人たちになぶられながら、たしかにそのとき、白雪はあの金色にかがやく光の化身のような少年のすがたを頭に描いていたのです。
それから、王子はたびたび泉へ来るようになっておりました。
「おまえが私に呪いをかけた」
水を汲んでいる白雪にそんなことをいいます。
「おまえを見ないでいられないように」
ほんの子どものくせにこまっしゃくれた口をきく少年を、けれど白雪はうとましく思うこともなく、朝のうちのほんのみじかい逢瀬を心待ちに毎日をすごすようになっておりました。
「おまえの髪は夜の闇よりも黒い」
背伸びして髪にふれてこようとする王子の手を、けれど白雪はするりとすりぬけて逃げます。
「わたくしに触れてはなりません。人の匂いをさせて戻れば、きっとわたくしの主は、あなたがかれらの財宝を奪いにやってきたと思うことでしょう」
じっさい小人たちはとても聡く、白雪がすこしでもふだんとちがう素振りを見せれば一晩かけてでも何があったのか聞きださずにはおかないのでした。それでも白雪は、王子に会いたい気持をおさえることはできず、けっきょく毎日水を汲むことを口実に泉に足をはこびました。
森で暮す白雪が王子に出会ってから、いくど目かの冬がやってきておりました。
その日も白雪は泉で桶に水を汲み、甕に移しておりました。かたわらでは王子がそんな白雪をじっと見ています。もうずいぶん背ものび力もついたというのに、いくど言っても白雪は手伝わせてくれないのです。白雪のしろい肌はつめたい水にさらされ、指さきが紅くなっています。頬もいくらか紅潮して、うなじに乱れた髪がまつわりついています。ふうと息をついて顔をあげたそのすがたに、王子は目をうばわれました。
白雪が王子を見て、にっこりと笑いました。王子はごくりとつばをのみ、白雪にたずねました。
「寒くはないのか」
「慣れています」
そうは言っても、いつもは紅いくちびるが紫いろになっています。そのくちびるから王子は目がはなせなくなり――
「――つめたい」
王子のことばにすこし遅れて、白雪は口を両手でおさえました。
その口に口で、王子ははじめて触れたのです。
王子は馬に草を食ませながら、目のまえで黒髪のうつくしい若者が泉の水を汲んでいるのを見つめます。あの甕がいっぱいになったら、きっとかれは言うでしょう。
「わたくしはこれで帰ります。あなたももうお戻りなさい。道に迷わないようにお気をつけて」
いくつになってもきゃしゃな愛人は、それでもいつまでたっても王子のことを子どものようにあつかいます。もう目の高さもほとんどかわらないというのに。このひとにとって、自分はいつまでたっても十の子どもなのでしょう。
どこにそんな力があるのかと思うような細い腕が甕を持ちあげるのを見るともなしに見ながら、王子はじれったいような気持をおさえることができません。そのしろい肌に跡がのこるくらい乱暴に腕をつかみ、ひきよせてかき抱くほかに王子にできることはありません。
「わたくしは、森を出るわけには参りません」
王子から顔をそむけ、白雪はくりかえします。ふれるまでは、こんなにしろい肌なのだからとても冷たいのではないかと思ってさえいた、ほんとうはとても熱い白雪のからだが腕のなかでもがくのを、くちづけでだまらせるほかに王子にできることはありません。
どれほどに強く抱いても、白雪はかたくななまでに森を離れることをこばみます。わけを問うても、わたくしはこの国の王を裏切ったのですと弱々しく言うばかりの白雪に、それ以上たずねることもできず、王子はいつも、歯噛みをする思いで小人たちのもとへ白雪を返すしかありませんでした。そうして、いつも白雪の消えたあと、あのちいさな家でいとしいひとが七人になにをされているのかを考えると、胸のうちで油の煮えたぎるような思いを味わうのでした。
「白雪さんは年々うつくしくなりますね」
「会ったばかりのころは女の子と見まがうようなかわいらしい子だったが、このごろではなまめかしさが何とも言えない」
「ほんとうに。王子につまみぐいさせるのが惜しいくらいですよ」
口々に言う小人たちのことばが、その手指よりもきつく白雪をさいなみます。かれらのことばとその動きに自分がさらされるたびに、それに応えてしまうたびに己がどんどん穢れてゆくように思われるのです。
季節は、夏をむかえようとしておりました。
ある朝、白雪が泉へゆくと、王子が思いつめた目をして立っておりました。白雪をみとめると、抱きよせてキスをして、その耳にささやきました。
「私のために‥‥死んでくれるか?」
いつのまにか自分より背の高くなっていた金色の太陽の化身のような少年を白雪が見あげます。王子は目をそらし、くちびるを噛みました。そうして、このたび十四歳になったかれに王位がゆずられることになったと話してきかせました。
「私が即位すれば、おまえもだれに憚ることなく森から出られる。おまえの親をおびやかすものはもういなくなる。そうだろう?」
それは白雪が長いあいだ夢に見ていたことでした。この森を出て自由に生きる。伯爵家に戻って愛する父と母とともに暮す。いまの王が退位すれば、たしかに小人が何をいっても親にわざわいがふりかかることはないのです。
忘れかけていた夢に白雪はほおを紅くして王子を見あげました。けれど王子は苦しそうに自分をみつめるばかりです。そのわけがわかっている白雪は、しんぼうづよく待っておりました。ぽつりと、王子が言いました。
「――けれど、それには条件がある」
「ご結婚なさるのですね」
王子の目が見ひらかれました。
「お相手はもう決まっていらっしゃる?」
王子は首をふりました。候補は数人いて、近いうちにひとりをえらばねばならないこと。来月の即位式までに婚約しなければならないこと。王子の口から語られるそれらを、白雪は王子の腕のなかでじっと聞いておりました。
「私が即位すれば、おまえは自由になれる。そうだろう? この森を出て‥‥生まれた家に戻ろうと、べつのどこかで暮そうと。だれと、暮そうと。――けれど」
くちびるをしめらせて、王子はつづけます。
「それは私には耐えがたい」
いつのまにか、王子の両手は白雪の首にかかっておりました。
「私だけが、おまえを自由にできる。おまえの手を離すことで、おまえ以外の者と――女と添うことで」
王子の指に力が入ります。白雪はあらがうこともせず、じっと王子を見つめておりました。
「おまえが小人たちとともにいることが許せない。おまえが私以外のだれといることも許せない。おまえを王宮の牢獄にずっと幽閉しておきたい――私だけのために、生かしておきたい。それがかなわないというのなら、この手で殺してやりたい」
白雪が意識を失う直前に、かすむ目でみた王子は、とてもやさしい目をしておりました。
かすかに呼びかける声を感じて白雪は目をひらこうとしました。まぶたはひどく重く、頭はがんがんします。うすぐらい部屋には、かたわらにだれかいるようです。
背をささえられ抱えおこされ、つめたい水をふくまされます。夜なのでしょうか、目をひらいてもなにも見えません。けれどからだを包んでくれている熱を白雪は知っておりました。
「王子」
かすれる声でささやくと、白雪を抱く腕がびくりとふるえました。長い吐息が頭の上で聞こえ、それから白雪は、きつく抱きしめられました。
「おまえは死んだ。くちびるは紅く、まるで生きているままのようだったが、息はとまり、呼んでも目をあけることはなかった。小人たちは悲しんだが、私の、おまえの遺体をひきとりたいという申し出には頷いた。私を狂人と思ったのだろう」
長い指が白雪の頬をなでました。まだ力のはいりきらない腕では、それに応えて王子の背を抱くこともかないません。
「おまえは私のために死んだ。――外に馬を用意してある。どこへでも行くがいい。おまえの望むように生きてゆけばいい」
白雪のからだは横たえられ、熱い手が、さいごに惜しむように首すじにふれて、そして離れてゆきました。
扉がひらき、また閉じる音を白雪は聞いたように思いました。
それから十日後のことです。お城で盛大なお妃えらびの舞踏会がひらかれ、国中の歳ごろのむすめと近隣の姫たちが招かれました。つぎつぎにあらわれるむすめたちは、みな思い思いの装いでなんとか王子の気をひこうとしております。けれど王子はだれに対してもおなじように、乞われれば踊りはしますが、そうでないときはただぼんやりともの思いにふけっているばかりでした。王子の頭のなかには、あの夜をかぎりに消えてしまった白雪ひとりしかなかったのです。
「踊っていただけませんか?」
おざなりな笑みをうかべて王子は顔をあげ、そのまま声もあげられませんでした。
そこに立っていたのは、こんな華やかな場にはにつかわしくない闇のように黒いドレスに身をつつんだ、忘れようもない愛しいひとだったのです。
「王子? 踊ってはいただけませんか」
白雪は作り声で王子に手をのべます。ふらふらと立ちあがり、ふるえる手でその手をつかみ、それからひと晩じゅう、王子はその手を離すことがありませんでした。
婚礼の儀はかつてないほど盛大なものでした。世界中からめずらしい宝石や織物が集められましたが、陶器のようにしろい肌の、黒い長い髪をまっすぐうしろに流した姫のまえにはどんな財宝もくすんで見えました。
その晩、眠っている王子の耳もとで呼びかける声があります。
「王子。王子」
王子が目をあけると、すっかり身支度をととのえた白雪のすがたがありました。森で会っていたころのような男のすがたです。ぼんやりする頭をふる王子に白雪は言いました。
「王子は王座をお選びになりますか、それともわたくしをお選びになりますか。わたくしは朝になるまえにここを発ちます。王位に未練がないのならともに参りましょう」
「どういうことだ」
「あなたがわたくしをあの森から解きはなってくださったように、わたくしもあなたをここから連れだしたいと思っているのです。舞踏会のときに、あなたの姉上たちも婿どのもおそろしい目であなたを見ておられました。王としてここにとどまり、あの方々と争い近隣の国とあらそう人生を送るのもあなたの生きかたでしょう。けれどわたくしには、あなたが心からそれを望んでおられるように思えない。毎日森へいらしたのは、王宮での暮しがあなたに合っていなかったからだとわたくしには思えてしかたないのです。もしそうであるなら、王子、わたくしとともにここを出て、だれもわたくしたちを知らない土地で暮しましょう。小人のいない、どこかべつの森で暮してもいいでしょう。もしあなたが王宮での暮しを選ぶのであれば、妃は急な病で死んだとおふれになってください。選ぶのはあなたです」
自分よりちいさくて見るからにはかなげなからだのどこにそんな力が、と思うようなつよい瞳で白雪は王子を見つめます。やはりこの方こそが自分の選んだあいてであったと、そのことにまちがいはなかったと、王子は気づいてほほえみました。そして白雪を抱きしめると、誓いのくちづけを送ったのです。
そうしてその日から、かれらの姿は王宮から消えました。
けれどかれらは、いまでもどこかの森にひっそりと、しあわせに暮していることでしょう。
11/07/16 20:39更新 / blueblack