白足袋をはいた猫
その王国はとてもちいさく、そしてとても平和でした。のぼれば国がすみずみまで見わたせる高い塔のある城があり、その塔のてっぺんには鐘がありました。朝と夕とに鐘が鳴り、その音が国じゅうに響きわたる、それはとてもちいさな王国でした。
その王国は国民に慕われる国王が統べており、国王にはうつくしい妃とふたりのうつくしい王女、そしてかわいらしいひとりの王子がありました。三人とも母ゆずりのやわらかい金の髪に父とおなじ深いみどりの目をもっておりました。ふたりの王女は腰までとどく髪を孔雀の羽で飾り、よくとおるうつくしい声で歌うすがたは金の小鳥にたとえられておりました。王子はやんちゃで、けれどちいさなからだで跳ねまわるすがたと愛らしいくちびるでさえずるようにしゃべる声は、金のちいさな鈴にたとえらえておりました。
この国は三つの大きな国に囲まれておりましたので、国王は二人の王女をそれぞれ隣国の王子と結婚させるつもりでおりました。そうすれば、なにかあったときにも隣国がこの平和な王国を守ってくれると考えたのです。王も妃も三人の子をひとしく愛しておりましたが、王はときおり末の息子を見やり、むすめが三人であれば、三国に嫁がせられるのにとも思うこともありました。
王子は塔が好きで、よくひとりでのぼっては、あきもせずに山々を見わたし鳥の歌を聞いておりました。姉たちをさそうこともありましたが、上の姉は高いところが苦手で、下の姉は上の姉といっしょでないとどこにも行きたがりませんでしたので、王子はいつもひとりで塔にのぼりました。
むかし、この国がいまよりずっと大きかったころ、国民と王族に敬われていた偉大な魔法使がいて国を守っていたといいます。その魔法使がなくなったとき、かれを偲んでこの塔が建てられたのだと伝えられています。いまは領土もずっとちいさくなりましたが、この塔はいまもこの王国と王族を守っているのだと伝えられています。おさないころからその話を聞かされて育った王子は、おさないころから日課のように塔にのぼっては、風に髪をなぶられ鳥の歌声を聞くことをたのしんでおりました。
塔にのぼると、風はつめたく強くふいてとても気持のいいものだと王子は思っておりました。じぶんの国がどれだけちいさいかもよくわかりましたし、けれど大きい国にもちいさい国にもひとしく雨が降り風の吹くことも、王子はずいぶんとおさないころから知っておりました。下の姉の好きなきらきらした髪飾りも、上から見れば雨粒よりちいさく見えましたし、母のたいせつにしている杏の木の実がいつ食べごろになるのかも、国のだれよりも早く王子は知っておりました。
父も母も王子が塔にのぼることを止めることはありませんでした。かえって毎日を塔の上ですごすような子であるなら、星見の学問を学ばせるか神官になるために神殿へやって学ばせるのがいいだろうかと考えるほどでした。上ふたりの王女は大国に嫁がせられますが、王子ではそうはゆきません。このちいさな国になにかあったときに、まず狙われるのが男の子である王子でしょう。国王は戦をおこして国をおおきくすることは考えませんでしたから、ちいさな国が平和であるために、そしてもし平和でなくなったときのために、国民のこととひとしく子どもたちのことをあれこれと考えておりました。
王子が十二のときに上の姉が隣国の王子に嫁ぐことになりました。隣国から多くの馬と楽隊がおとずれ、七日と七晩にわたって盛大な招きの宴が催されましたが、王子は祝いの席をぬけだして、毎日塔にのぼっておりました。
塔の上からながめると、あれほどにきらびやかな祭りの列も母の首飾りほどにしか見えず、王子はくすくすと笑いました。姉も、姉がうっとりと見あげていたすらりと背の高い隣国の王子も、どこにいるものやらわからないほどちいさく見えるのです。
そのちっぽけな列が隣国へゆっくりと進んでゆくのを、王子は塔の上からじっと見ておりました。
王子が十五のときに下の姉に隣国の第一王子との結婚話が持ちあがりました。上の姉が嫁いだ国にも隣にあたる大国の王が、わが子にぜひと申し出があったのです。下の姉は前々からその国の王子のことを好いていると言っておりましたので、王と妃は、これで上ふたりの身は安泰だと喜んでおりましたが、かんじんの王女はなぜかうかぬ顔をしております。王子がたずねてみても、悲しそうに首をふるばかりです。
ある夜、王子はいつものように塔へのぼって星をながめておりました。しばらく星をながめていたのですが、そのうち空がくもりはじめ、雨がふってきました。これはいけないと思って王子は塔をおりることにしました。
石の階段をおりきって、さて外に出たものかと雨をみながら考えていると、どこからか歌が聞こえてきました。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
弟ぎみがわたしをここから出してくださるなら、
きっと、その涙をかわかしてさしあげますのに。
王子はあたりを見まわしましたが、夜は暗くなにも見えません。
「おまえはだれか。どこにいるのか」
王子が呼びかけると、声が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
弟ぎみがわたしをここから出してくださるなら、
きっと、その涙をかわかしてさしあげますのに。
王子が耳をすましてみますと、声はどうやら、王子の足の下から聞こえてくるのです。王子は石の階段に耳をつけてみました。なにか聞こえるようでもあり、聞こえないようでもあります。
王子がゆっくりと足元にかがみこむと、塔へのぼる階段の一段めのわきに光るものがあるのがわかりました。そこには一枚の銀貨が埋めこまれていました。その銀貨に手をふれると、声が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
弟ぎみがわたしを見つけてくださいました。
弟ぎみがわたしを手にしたときに、きっと、その涙をかわかしてさしあげましょう。
王子は腰に差していた短剣を取り、石につきたてました。二度、三度と石をえぐると、銀貨がぽろりとはずれました。ひろいあげてみると、その銀貨には穴がうがたれており、どうやら魔法使がそこに紐をとおして使っていたのだろうと王子は考えました。
王子は髪をまとめていた皮紐をはずし、銀貨にとおして首にかけました。すると王子は一匹のちいさな猫になっておりました。夜のようにまっ黒で足のさきが白く、胸もとにも白い模様のついた、とてもうつくしい猫です。
猫はひと声鳴くと、王女の寝室へと走ってゆきました。
扉の前で、あおうあおうと鳴く猫に王女はすぐに気づいて部屋へ招きいれてくれました。やはり泣いていたのでしょう、目があかくなっています。子猫を抱きあげ、寝台に腰かけると王女はまたぽろぽろと涙をこぼしはじめました。
子猫は王女の腕から顔をのぞかせ、涙にぬれた頬をなめてやりました。王女は子猫のあごをくすぐって、
「なぐさめてくれるの。ありがとう」
と言って、また泣きました。そのたびに子猫はあおうあおうと鳴いて、王女の涙をなめてやります。じぶんが爪をたてて王女のしろい腕に傷をつけてはいないかと心配になって、子猫は爪をひっこめて、王女の頬にふれました。ざらざらした舌ではやわらかい肌によくないと思って、あごの下のやわらかい毛をすりつけました。王女はくすぐったそうに首をすくめ、猫の鼻先にキスをしました。
「ありがとう。でもわたしはこれから毎夜きっと泣きつづけることでしょう。もうすぐ結婚しなければならないのよ。いとしい方のお兄さまと」
そう言ってまたはらはらと涙をこぼす王女の腕のなかで、子猫はずっと爪をひっこめた前足とやわらかい毛皮で涙をぬぐってやりました。
翌日、王子は塔へはゆかず、父王に隣国のことをたずねました。
「姉さまが結婚なさる王子は、どのような方ですか」
「りっぱな方だよ。あちらの王が、ふたりが結婚したらすぐにでも王位をゆずりたいと言っておられるくらいにしっかりした方だ」
「弟王子がおられるそうですが」
「ああ、とてもやさしい方だとうかがっている。歳もちかいことだから、姫にもよい弟になってくれることだろう」
それを聞くと王子は衛兵を呼び、稽古用に刃をつぶした剣をふた振り用意させました。それから馬小屋へゆき、いちばんの駿馬に鞍をつけ、馬丁の息子に質素な服装を用意させるとそれに着替え、革袋に水をつめ、馬を走らせて隣国へ赴きました。国境まで来て、衛兵が他国からの旅人をしらべているのを見、馬からおりてそばの水車小屋の裏に馬をつなぎました。馬にたっぷりの水をあたえて、王子は懐から銀貨を取りだしました。
銀貨が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
いま、わたしは弟ぎみの手にあります、
きっと、その涙をかわかしてさしあげましょう。
王子は銀貨を首にかけました。
衛兵たちが昼飯を食べているわきを、ちいさな黒い猫がとおりすぎてゆきました。うあんとひと声なき、猫はそのまままっすぐ王宮へと向かいました。
王宮の中庭で、第一王子が衛兵を相手に剣の稽古をしておりました。すぐそばの木の陰に第二王子がすわってそれをながめております。黒い髪をうしろで束ねて黒い衣に身をつつんだ第一王子の剣がひらめくと、衛兵の手から剣がはね飛び、からんと音をたててころがりました。第二王子がそれをひろいあげ、衛兵に渡してやりました。淡い茶色の目がいたずらそうな表情をうかべています。
「まったく、こいつらでは相手にならん」
第一王子が声をかけると、第二王子はくすくすと笑って答えます。
「兄上にかなう者などこの国にはおりますまい」
「今度はおまえが相手をしろ」
ご冗談を、と言って第二王子はまた木陰にもどりました。
「兄上に剣で向かうほど命しらずではありません」
「そのかわり弓矢の腕はおまえが上だ」
「ひとつくらいは、わたくしにも兄上に勝るものを残しておいてください」
第二王子は衛兵たちに同意をもとめるように笑いかけ、木の幹にからだをあずけました。ふと見ると、目のまえの花のかげに、とてもうつくしい猫がおりました。からだは夜のように黒く、足のさきは雪より白く、ひげはぴんととがっています。第二王子がしゃがんでたわむれに手をのばすと、猫はすっと寄ってきました。そうして王子の指さきのにおいをかぐようなようすを見せました。
第二王子は腰につけてあった革袋から干肉を取りだすと、短剣ですこしばかりけずりとって、猫のほうへつき出しました。猫はおそるおそるといった態で近づいてきて、その手から干肉を食べはじめました。そうっと背に手をのせても逃げようとしません。それどころかさらに近くまできて、第二王子のひざにとんと乗ると、その腹のあたりに前足をおいてのびあがり、顔をのぞきこむようにしました。しなやかな茶色の髪のにおいをかぎ、ほほをなめようとします。
おもしろくなって、第二王子は猫のあごをなでてやりました。ごろごろとのどを鳴らして猫が頭をすりつけてきます。干肉をもうひとかけら与えると、指にかみつかんばかりのいきおいでかじりついてきます。
「おまえ、飼猫だね。どこから来たんだい」
猫はあおうと鳴いてなおも第二王子に頭をすりつけます。ふわふわの毛皮がくすぐったくて第二王子が笑い声をたてます。
「ずいぶんやせた猫だな」
とつぜん、わきからのびたおおきな手が猫の首をつかんでひょいと持ちあげました。猫はぎゃおうと声をあげましたが、つかみ上げた第一王子はかまわず目の高さまで猫をもってきて、牙をむいて威嚇するのへ鼻さきをつきつけるようにして、いきなり猫の顔にふっと息をふきかけました。猫がびくんとすくむと、笑いながら、ほうらと猫をほうり上げるまねをして見せました。猫はひどくあばれて四肢をつっぱらせて毛を逆だてましたが、第一王子はよけいにおもしろがって、はなそうとしません。
「兄上、かわいそうでしょう」
第二王子が兄をおしとどめ、その手から猫を取りかえそうとしましたが、もみあうふたりの王子の手から猫はするりと身をくねらせて飛びおりると、そのまま藪のなかに逃げこんでいってしまいました。
「ああ、ほら。兄上があまりいじめるからですよ」
弟の言葉に第一王子はふんと笑うことで答えましたが、その目は猫が走りぬけていった藪のほうへむけられておりました。
剣の稽古のあとで第一王子は馬を森に走らせました。国境ちかくの川へさしかかると、つめたく心地よい風がふいておりました。馬に清い水を飲ませてやろうと思い、王子は馬をおりてかたわらの木につないで水をあたえ、自分は川のほとりのやわらかな草の上にごろりと寝ころびました。
ぼんやりしていると、目のまえを黒い影がよぎりました。さきほどの子猫が散歩でもしているのでしょうか、ちいさな体ににあわず優雅な足取りでゆくのが見えます。
ふと猫がこちらを向き、足を止めました。王子も猫をじっと見つめました。ほそいからだはまっ黒で、これもすんなりほそい足は、まるで舞踏の編上靴をはいているようにきれいな白です。まっすぐこちらを見ているまるい目は、遠国の商人が持ちこんできたどんな宝石よりも深い、うつくしいみどりにかがやいておりました。
王子が半身をおこして手をのばしてみると、ちいさな猫はすこし首をかしげるようなしぐさをしてみせて、それからぷいと顔をそむけました。王子が立ちあがると二、三歩あとずさります。王子はおもしろくなって、おおきなうごきで猫のそばへゆくと、ぐっと首ねっこをつかみ、そのまま目のまえまでひきずりよせました。じぶんがどれほどにちいさいかも知らず、口をおおきくあけて牙をむきだし威嚇する猫は、王子の目にはとてもおもしろく、また愛らしくうつったので、王子はいやがる猫をだきこみ、革袋からチーズを出してちいさな猫の鼻さきへつきつけました。
ちいさな猫はからだをのけぞらせるようにしてあばれ、チーズを食べるどころかそのするどい爪で王子の手をひっかこうとさえします。王子は、そのおおきな手を猫のからだの下からくぐらせ、くるりとひっくりかえすと前足をうまくよけて胸もとから首をがっしりとおさえて顔を固定してしまい、猫の背中をじぶんの胸におしつけるようにしました。そうしてもう一方の手でチーズのいちばんやわらかいところをすくい取り、ちいさな口をあけさせると上あごになすりつけました。これには猫もあらがいようがなく、ぺちゃぺちゃと音をたてて口のなかのチーズをなめとりはじめました。
そのようすを王子はじっと見ておりました。ちいさな猫がすっかり口のなかのものを飲みこんで舌をちろちろのぞかせながら顔をあげると、王子のこげ茶のひとみがじぶんを見つめているのです。ちいさな猫はあおうと鳴き、そうしてさきほどよりは弱く両足をつっぱりました。王子は、こんどはすんなりと手の力をぬいてやり、猫はぺろりと鼻のあたまをなめ、それから王子の腕のなかからすとんとおりると走っていってしまいました。
王子が川のつめたい水で喉をうるおしていると、草をふみわける、ごくかるい足音が近づいてきました。やがて目のまえの木の影からひとりの少年が顔をだしました。とてもうつくしい少年です。このあたりにくらす子でしょうか、ひじのあたりまでまくりあげたシャツにズボンといういでたちで、金色の髪が陽の光にきらきらとかがやいています。そまつなかっこうのその少年は、けれど肌は村の子のように焼けてはおらず、七分丈のズボンからのぞく足も、まるで深い海にねむる真珠のように白くかがやいています。頬を淡紅色にそめてすこしばかり息をはずませている少年は王子をちらりと見やり、川にゆっくり近づくと川下で素足を水にひたしました。やがてかがみこむと、両手につめたい水をすくってごくごくと飲みはじめました。ふせられた睫毛が金色にかがやき、白い喉が動くのを王子は見ておりました。
この国にくらす者であれば王子の肩からかけられた上衣の紋章の意味を知らぬはずはありません。王子はけっして暴君ではありませんでしたが、村人は王族を畏れおおく思っておりましたから、王族とおなじ川から水を飲もうなどと考えるはずもありません。
ふたりはしばらくなにも言わず、おなじ川の流れを、おなじ水のつめたさを感じておりましたが、やがて少年が顔をあげ、口もとをぬぐいました。少年は王子のほうをふり向き、すこし首をかしげるようにしていましたが、片ひざをつくと深く頭をさげます。金の髪がさらさらとゆれ、まるで金の木の葉がさざめいてあたりに光が満ちるようでした。
「無礼をおわびいたします、偉大なる国の王子よ。これから私が口にします願いを、どうぞ寛大な心を持ってお聞き届けください」
その姿ににつかわしい、やわらかい金の光のような声で少年は話しはじめました。
「わたくしは、隣国との国境近くの水車小屋の息子にございます。村人の収穫した小麦を挽き、ひと袋につき椀に一杯の小麦を得てくらしております。わたくしどもの国の王はやさしく正しい方で、重い税を取ることもありません」
王子はつないであった馬にあたらしい水をやりながらつづきをうながしました。
「わたくしの国の宝である王女は、この偉大なる国の第一王子であるあなたさまとの婚礼をひかえております。――王子」
すっと少年が王子のほうへ近づいてきました。顔をあげ、うつくしいふかい緑の目が王子の目をとらえます。
「金の小鳥とも言われるわたくしの国の王女を、わたくしはなにものにも代えがたく慈しんでおります。水車小屋の息子には叶うべくもない夢をわたくしは見ております。王子、わたくしと勝負ねがいます」
つかいこまれた稽古用の剣を少年はさし出しました。王子は剣と少年をしばらく見くらべていましたが、にやりと笑って受けとると、正式な礼もなくいきなり少年にむかって鞘から抜きもしないで剣をふりかざしてきました。
ふいをつかれた少年は二、三歩よろけましたが、すぐに態勢をととのえると自分も鞘をつけたまま応戦しました。けれど打ちあううちに、はっきりと力の差があらわれました。なによりも鞘をつけたままの剣は、小柄な少年にはいくらか重すぎたのです。
少年は一歩一歩おいつめられておりました。傍らの木にほとんど背中をおしつけられるような姿勢になりながら、それでもそのみどりの目は燃えるような強い力をたたえ、頬を紅潮させて王子をにらみつけてきます。
王子はそんな少年をゆっくりとなぶるように剣をあやつります。革の鞘どうしがぶつかる鈍い音が森に響き、木のうえでは小動物がものめずらしげにふたりを見まもっております。いたぶられながらも少年の動きはしなやかさをうしなうことなく、けんめいに体勢をたてなおそうとします。しかし、王子の剣が少年の手首をかすめると、その手から剣が飛びました。少年はとっさにしゃがみこんで王子の足もとをすりぬけ、ころがるように剣に飛びつきました。もぎとるように鞘をぬきとり構えましたが、そのときには王子の剣が、少年の首にぴたりとあてられておりました。
しんとした森に、少年のあえぐような呼吸だけが聞こえます。胸をはずませ、すがりつくように剣をにぎりしめている少年と、息ひとつみだしていない黒髪の王子とでは、勝負はあきらかでした。
王子は剣の鞘で少年の首すじにふれ、それから剣を草のうえに投げすてました。そのままきびすを返すと、つないであった馬の方へゆこうとしました。
「王子――王子」
苦しげな少年の声に王子はふりむきました。金の髪をひたいにはりつかせ汗をうかべた少年は、それでも気丈に背筋をのばし、あらためて礼をして、顔をあげました。金の髪とみどりの目が、まっすぐに王子の目をみています。
「王子。わたくしは、わたくしの国の宝を、金の小鳥をだれよりも慈しんでおります。金の小鳥がうつくしく歌うことこそが」
「おまえの願いは聞かれよう」
少年のことばをさえぎって王子は言いました。
「おまえの国の金の小鳥は、わたしのまえで歌ったことがない」
それだけ言うと、王子は馬に乗って去ってしまいました。
少年は火照る頬をおさえてしばらく立っておりました。懐にかくされた銀貨が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
いま、わたしは弟ぎみと共にあります、
きっと、その涙をかわかしてさしあげましょう。
その夜のことです。第二王子の寝室の扉を叩く、ごくひかえめな音がありました。第二王子が扉を開けると、ひとりの少年が立っておりましたので、間者かと思ってかたわらの剣を取りましたが、少年はうすいシャツとズボンを着たきりで、剣どころかなにも隠し持ってもいないと知らせるように両手をひらいて王子に向けました。そまつな身なりの少年が膝をつき、うやうやしく頭をさげるのにあわせて、やわらかそうな金の髪がさらりと背中から流れおちます。その、なつかしい方とおなじ髪の色に王子は胸を突かれました。
「顔をあげよ」
王子のことばに少年は頭をあげました。まっすぐにこちらを見る目の色も、あの方とおなじ深いみどりです。まじまじと見つめる王子のようすをうかがうように少年はだまっていましたが、やがて口をひらきました。
「無礼をおわびいたします、偉大なる国の王子よ。これから私が口にします願いを、どうぞ寛大な心を持ってお聞き届けください」
一国の王子をまえにして、ものおじもしないようすに王子はますます興味をひかれ、かたわらの椅子に腰かけてつづきをうながしました。
「わたくしは、この偉大なる国の第一王子との婚礼をひかえた王女に仕えている下女の弟にございます。姉の仕える王女はおやさしい方で、にっこり笑まれると金の光があたりに満ちるように思われるほどなのですが、婚礼が決まってからというもの、そのおやさしいお顔にうかべられるのは悲しみの色ばかりで、このままでは婚礼の日を待たずしてはかなくなってしまわれるのではと姉もわたくしも心をいためております」
第二王子は、少年の口から思いがけない方のことを聞き、目をみひらきました。椅子の足もとの毛織のじゅうたんへ少年をまねいて言いました。
「そばへ来るがよい。ここへ座って、もっと聞かせてくれ」
少年はやわらかい動作で王子のもとへやってきました。あらためてじゅうたんに膝をつき、顔をあげます。間近でみると、金の髪も目の色もやわらかそうなくちびるも、ますますあの方を思わせて、王子はつい少年にふれそうになる心をおさえるのに苦労しました。
「王女は姉にだけ、お心をうちあけてくださったのです。思う方がいらっしゃると。ご自分が嫁ぐことになっているこの国の第一王子の、その弟ぎみのほかには、添いたい方などないと。――王子」
強い声でたずねられ、王子は少年を見つめました。
「王子はわたくしの国の宝、金の小鳥とも呼ばれる王女を思ってくださいますか」
「ああ、わたしも、はじめてあの方にお会いしたときから、あの方だけを思ってくらしている」
「ではなぜ、王女は歌うことをわすれてしまった小鳥のようにしておられるのでしょう。なぜ毎晩涙を流しておいでなのでしょう」
「わたしは、あの方のお心を知らずにいた」
少年はじっと王子を見つめ、そしてまた口をひらきました。
「わたくしは王女に似ておりますか」
「――とても、よく似ている」
「わたくしの姉は、わたくしよりもっと王女に似ております。姉は王女に身代わりを申し出たのです。婚礼の日、姉が第一王子のもとへゆき、王女があなたさまのもとへ来られるようにと。わたくしには姉のたくらみが成功するとは思えません。このことが知られれば姉は死罪、いえ姉のことだけでなくわたくしの愛する国も、あなたさまの国に攻めいられほろぼされましょう。王子」
いつのまにか王子は少年のみどりの目にすいこまれるような心持になっておりました。
「王子、あなたさまだけが姉を、わたくしの国を救ってくださる力をお持ちです。あなたさまだけが王女をかなしみから救ってくださる力をお持ちです。どうぞ、王子――」
そのとき寝室の扉にノックの音がしました。少年はびくっと体をかたくしました。王子は寝台の裏に少年をいざない、身をかくさせました。
入ってきたのは第一王子でした。かれを寝室に招きいれたときに足もとをすりぬけたちいさな黒い影には、ふたりの王子は気がつきませんでした。
第一王子との話がおわり、かれが寝室を出たあとで第二王子は寝台へ呼ばわりました。なんの応えも返ってこないのをいぶかしんで第二王子が寝台の裏へまわると、そこはもぬけのからで、金の髪の少年はもうどこにもいませんでした。
それから七日後、王女が嫁ぐことになっている大国から使者がありました。第一王子が遠国へ勉学にゆくというのです。海を越えた大陸に、その名を知られた偉大な魔法使があり、そこへ招かれるという栄誉を第一王子が賜ったのです。
魔法使の修行に入る者に妻帯は許されませんので、王女には第二王子との縁談の申出があらためてありました。王女が頬をそめてうなずきましたので、婚儀はつつがなく執り行われることになりました。
姉の婚礼の宴を王子が塔のうえから見まもっていると、階段をのぼってくる足音がありました。
かれがふりむくと、そこにはつややかな黒い髪の第一王子が立っておりました。
「久しいな。水車小屋の王子。わたしと共に来るだろう?」
王子はおどろいて立ちすくんでしまいました。
「どうして――」
黒髪の王子はにやにやと笑って言いました。
「弟のようなぼんくらと一緒にされては困る」
黒髪の王子はそういうと、金の髪の王子の胸をかざる金鎖の金具についた紋章を指でしめしました。
「おまえが持ってよこした剣、柄の紋章に気づかぬと思ったか?」
金の髪の王子が答えるより早く、黒髪の王子はかれを腕のなかに抱きこみ、ふるえる金の睫毛にくちづけをほどこしました。
「おまえの父が言うには、おまえは星見の学問に向いているそうだ。わたしが学ぶ国には偉大な星見もいる。おまえはわたしと共に海を渡り、共に学び、共にこれからをすごすのだ」
おおきな腕のなかで王子は頬をそめ、おおきな手があごをもちあげるのにまかせておりました。やわらかな金の睫毛がしっとりと濡れてくるのと、やっと自由をとりもどしたくちびるから熱い吐息がこぼれるのはほぼ同時でした。
懐にかくされた銀貨が歌います。
わが国の宝、愛らしい王子よ。
わたしをここから出してくださるなら、
きっと、その涙をかわかしてさしあげますのに。
その王国は国民に慕われる国王が統べており、国王にはうつくしい妃とふたりのうつくしい王女、そしてかわいらしいひとりの王子がありました。三人とも母ゆずりのやわらかい金の髪に父とおなじ深いみどりの目をもっておりました。ふたりの王女は腰までとどく髪を孔雀の羽で飾り、よくとおるうつくしい声で歌うすがたは金の小鳥にたとえられておりました。王子はやんちゃで、けれどちいさなからだで跳ねまわるすがたと愛らしいくちびるでさえずるようにしゃべる声は、金のちいさな鈴にたとえらえておりました。
この国は三つの大きな国に囲まれておりましたので、国王は二人の王女をそれぞれ隣国の王子と結婚させるつもりでおりました。そうすれば、なにかあったときにも隣国がこの平和な王国を守ってくれると考えたのです。王も妃も三人の子をひとしく愛しておりましたが、王はときおり末の息子を見やり、むすめが三人であれば、三国に嫁がせられるのにとも思うこともありました。
王子は塔が好きで、よくひとりでのぼっては、あきもせずに山々を見わたし鳥の歌を聞いておりました。姉たちをさそうこともありましたが、上の姉は高いところが苦手で、下の姉は上の姉といっしょでないとどこにも行きたがりませんでしたので、王子はいつもひとりで塔にのぼりました。
むかし、この国がいまよりずっと大きかったころ、国民と王族に敬われていた偉大な魔法使がいて国を守っていたといいます。その魔法使がなくなったとき、かれを偲んでこの塔が建てられたのだと伝えられています。いまは領土もずっとちいさくなりましたが、この塔はいまもこの王国と王族を守っているのだと伝えられています。おさないころからその話を聞かされて育った王子は、おさないころから日課のように塔にのぼっては、風に髪をなぶられ鳥の歌声を聞くことをたのしんでおりました。
塔にのぼると、風はつめたく強くふいてとても気持のいいものだと王子は思っておりました。じぶんの国がどれだけちいさいかもよくわかりましたし、けれど大きい国にもちいさい国にもひとしく雨が降り風の吹くことも、王子はずいぶんとおさないころから知っておりました。下の姉の好きなきらきらした髪飾りも、上から見れば雨粒よりちいさく見えましたし、母のたいせつにしている杏の木の実がいつ食べごろになるのかも、国のだれよりも早く王子は知っておりました。
父も母も王子が塔にのぼることを止めることはありませんでした。かえって毎日を塔の上ですごすような子であるなら、星見の学問を学ばせるか神官になるために神殿へやって学ばせるのがいいだろうかと考えるほどでした。上ふたりの王女は大国に嫁がせられますが、王子ではそうはゆきません。このちいさな国になにかあったときに、まず狙われるのが男の子である王子でしょう。国王は戦をおこして国をおおきくすることは考えませんでしたから、ちいさな国が平和であるために、そしてもし平和でなくなったときのために、国民のこととひとしく子どもたちのことをあれこれと考えておりました。
王子が十二のときに上の姉が隣国の王子に嫁ぐことになりました。隣国から多くの馬と楽隊がおとずれ、七日と七晩にわたって盛大な招きの宴が催されましたが、王子は祝いの席をぬけだして、毎日塔にのぼっておりました。
塔の上からながめると、あれほどにきらびやかな祭りの列も母の首飾りほどにしか見えず、王子はくすくすと笑いました。姉も、姉がうっとりと見あげていたすらりと背の高い隣国の王子も、どこにいるものやらわからないほどちいさく見えるのです。
そのちっぽけな列が隣国へゆっくりと進んでゆくのを、王子は塔の上からじっと見ておりました。
王子が十五のときに下の姉に隣国の第一王子との結婚話が持ちあがりました。上の姉が嫁いだ国にも隣にあたる大国の王が、わが子にぜひと申し出があったのです。下の姉は前々からその国の王子のことを好いていると言っておりましたので、王と妃は、これで上ふたりの身は安泰だと喜んでおりましたが、かんじんの王女はなぜかうかぬ顔をしております。王子がたずねてみても、悲しそうに首をふるばかりです。
ある夜、王子はいつものように塔へのぼって星をながめておりました。しばらく星をながめていたのですが、そのうち空がくもりはじめ、雨がふってきました。これはいけないと思って王子は塔をおりることにしました。
石の階段をおりきって、さて外に出たものかと雨をみながら考えていると、どこからか歌が聞こえてきました。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
弟ぎみがわたしをここから出してくださるなら、
きっと、その涙をかわかしてさしあげますのに。
王子はあたりを見まわしましたが、夜は暗くなにも見えません。
「おまえはだれか。どこにいるのか」
王子が呼びかけると、声が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
弟ぎみがわたしをここから出してくださるなら、
きっと、その涙をかわかしてさしあげますのに。
王子が耳をすましてみますと、声はどうやら、王子の足の下から聞こえてくるのです。王子は石の階段に耳をつけてみました。なにか聞こえるようでもあり、聞こえないようでもあります。
王子がゆっくりと足元にかがみこむと、塔へのぼる階段の一段めのわきに光るものがあるのがわかりました。そこには一枚の銀貨が埋めこまれていました。その銀貨に手をふれると、声が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
弟ぎみがわたしを見つけてくださいました。
弟ぎみがわたしを手にしたときに、きっと、その涙をかわかしてさしあげましょう。
王子は腰に差していた短剣を取り、石につきたてました。二度、三度と石をえぐると、銀貨がぽろりとはずれました。ひろいあげてみると、その銀貨には穴がうがたれており、どうやら魔法使がそこに紐をとおして使っていたのだろうと王子は考えました。
王子は髪をまとめていた皮紐をはずし、銀貨にとおして首にかけました。すると王子は一匹のちいさな猫になっておりました。夜のようにまっ黒で足のさきが白く、胸もとにも白い模様のついた、とてもうつくしい猫です。
猫はひと声鳴くと、王女の寝室へと走ってゆきました。
扉の前で、あおうあおうと鳴く猫に王女はすぐに気づいて部屋へ招きいれてくれました。やはり泣いていたのでしょう、目があかくなっています。子猫を抱きあげ、寝台に腰かけると王女はまたぽろぽろと涙をこぼしはじめました。
子猫は王女の腕から顔をのぞかせ、涙にぬれた頬をなめてやりました。王女は子猫のあごをくすぐって、
「なぐさめてくれるの。ありがとう」
と言って、また泣きました。そのたびに子猫はあおうあおうと鳴いて、王女の涙をなめてやります。じぶんが爪をたてて王女のしろい腕に傷をつけてはいないかと心配になって、子猫は爪をひっこめて、王女の頬にふれました。ざらざらした舌ではやわらかい肌によくないと思って、あごの下のやわらかい毛をすりつけました。王女はくすぐったそうに首をすくめ、猫の鼻先にキスをしました。
「ありがとう。でもわたしはこれから毎夜きっと泣きつづけることでしょう。もうすぐ結婚しなければならないのよ。いとしい方のお兄さまと」
そう言ってまたはらはらと涙をこぼす王女の腕のなかで、子猫はずっと爪をひっこめた前足とやわらかい毛皮で涙をぬぐってやりました。
翌日、王子は塔へはゆかず、父王に隣国のことをたずねました。
「姉さまが結婚なさる王子は、どのような方ですか」
「りっぱな方だよ。あちらの王が、ふたりが結婚したらすぐにでも王位をゆずりたいと言っておられるくらいにしっかりした方だ」
「弟王子がおられるそうですが」
「ああ、とてもやさしい方だとうかがっている。歳もちかいことだから、姫にもよい弟になってくれることだろう」
それを聞くと王子は衛兵を呼び、稽古用に刃をつぶした剣をふた振り用意させました。それから馬小屋へゆき、いちばんの駿馬に鞍をつけ、馬丁の息子に質素な服装を用意させるとそれに着替え、革袋に水をつめ、馬を走らせて隣国へ赴きました。国境まで来て、衛兵が他国からの旅人をしらべているのを見、馬からおりてそばの水車小屋の裏に馬をつなぎました。馬にたっぷりの水をあたえて、王子は懐から銀貨を取りだしました。
銀貨が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
いま、わたしは弟ぎみの手にあります、
きっと、その涙をかわかしてさしあげましょう。
王子は銀貨を首にかけました。
衛兵たちが昼飯を食べているわきを、ちいさな黒い猫がとおりすぎてゆきました。うあんとひと声なき、猫はそのまままっすぐ王宮へと向かいました。
王宮の中庭で、第一王子が衛兵を相手に剣の稽古をしておりました。すぐそばの木の陰に第二王子がすわってそれをながめております。黒い髪をうしろで束ねて黒い衣に身をつつんだ第一王子の剣がひらめくと、衛兵の手から剣がはね飛び、からんと音をたててころがりました。第二王子がそれをひろいあげ、衛兵に渡してやりました。淡い茶色の目がいたずらそうな表情をうかべています。
「まったく、こいつらでは相手にならん」
第一王子が声をかけると、第二王子はくすくすと笑って答えます。
「兄上にかなう者などこの国にはおりますまい」
「今度はおまえが相手をしろ」
ご冗談を、と言って第二王子はまた木陰にもどりました。
「兄上に剣で向かうほど命しらずではありません」
「そのかわり弓矢の腕はおまえが上だ」
「ひとつくらいは、わたくしにも兄上に勝るものを残しておいてください」
第二王子は衛兵たちに同意をもとめるように笑いかけ、木の幹にからだをあずけました。ふと見ると、目のまえの花のかげに、とてもうつくしい猫がおりました。からだは夜のように黒く、足のさきは雪より白く、ひげはぴんととがっています。第二王子がしゃがんでたわむれに手をのばすと、猫はすっと寄ってきました。そうして王子の指さきのにおいをかぐようなようすを見せました。
第二王子は腰につけてあった革袋から干肉を取りだすと、短剣ですこしばかりけずりとって、猫のほうへつき出しました。猫はおそるおそるといった態で近づいてきて、その手から干肉を食べはじめました。そうっと背に手をのせても逃げようとしません。それどころかさらに近くまできて、第二王子のひざにとんと乗ると、その腹のあたりに前足をおいてのびあがり、顔をのぞきこむようにしました。しなやかな茶色の髪のにおいをかぎ、ほほをなめようとします。
おもしろくなって、第二王子は猫のあごをなでてやりました。ごろごろとのどを鳴らして猫が頭をすりつけてきます。干肉をもうひとかけら与えると、指にかみつかんばかりのいきおいでかじりついてきます。
「おまえ、飼猫だね。どこから来たんだい」
猫はあおうと鳴いてなおも第二王子に頭をすりつけます。ふわふわの毛皮がくすぐったくて第二王子が笑い声をたてます。
「ずいぶんやせた猫だな」
とつぜん、わきからのびたおおきな手が猫の首をつかんでひょいと持ちあげました。猫はぎゃおうと声をあげましたが、つかみ上げた第一王子はかまわず目の高さまで猫をもってきて、牙をむいて威嚇するのへ鼻さきをつきつけるようにして、いきなり猫の顔にふっと息をふきかけました。猫がびくんとすくむと、笑いながら、ほうらと猫をほうり上げるまねをして見せました。猫はひどくあばれて四肢をつっぱらせて毛を逆だてましたが、第一王子はよけいにおもしろがって、はなそうとしません。
「兄上、かわいそうでしょう」
第二王子が兄をおしとどめ、その手から猫を取りかえそうとしましたが、もみあうふたりの王子の手から猫はするりと身をくねらせて飛びおりると、そのまま藪のなかに逃げこんでいってしまいました。
「ああ、ほら。兄上があまりいじめるからですよ」
弟の言葉に第一王子はふんと笑うことで答えましたが、その目は猫が走りぬけていった藪のほうへむけられておりました。
剣の稽古のあとで第一王子は馬を森に走らせました。国境ちかくの川へさしかかると、つめたく心地よい風がふいておりました。馬に清い水を飲ませてやろうと思い、王子は馬をおりてかたわらの木につないで水をあたえ、自分は川のほとりのやわらかな草の上にごろりと寝ころびました。
ぼんやりしていると、目のまえを黒い影がよぎりました。さきほどの子猫が散歩でもしているのでしょうか、ちいさな体ににあわず優雅な足取りでゆくのが見えます。
ふと猫がこちらを向き、足を止めました。王子も猫をじっと見つめました。ほそいからだはまっ黒で、これもすんなりほそい足は、まるで舞踏の編上靴をはいているようにきれいな白です。まっすぐこちらを見ているまるい目は、遠国の商人が持ちこんできたどんな宝石よりも深い、うつくしいみどりにかがやいておりました。
王子が半身をおこして手をのばしてみると、ちいさな猫はすこし首をかしげるようなしぐさをしてみせて、それからぷいと顔をそむけました。王子が立ちあがると二、三歩あとずさります。王子はおもしろくなって、おおきなうごきで猫のそばへゆくと、ぐっと首ねっこをつかみ、そのまま目のまえまでひきずりよせました。じぶんがどれほどにちいさいかも知らず、口をおおきくあけて牙をむきだし威嚇する猫は、王子の目にはとてもおもしろく、また愛らしくうつったので、王子はいやがる猫をだきこみ、革袋からチーズを出してちいさな猫の鼻さきへつきつけました。
ちいさな猫はからだをのけぞらせるようにしてあばれ、チーズを食べるどころかそのするどい爪で王子の手をひっかこうとさえします。王子は、そのおおきな手を猫のからだの下からくぐらせ、くるりとひっくりかえすと前足をうまくよけて胸もとから首をがっしりとおさえて顔を固定してしまい、猫の背中をじぶんの胸におしつけるようにしました。そうしてもう一方の手でチーズのいちばんやわらかいところをすくい取り、ちいさな口をあけさせると上あごになすりつけました。これには猫もあらがいようがなく、ぺちゃぺちゃと音をたてて口のなかのチーズをなめとりはじめました。
そのようすを王子はじっと見ておりました。ちいさな猫がすっかり口のなかのものを飲みこんで舌をちろちろのぞかせながら顔をあげると、王子のこげ茶のひとみがじぶんを見つめているのです。ちいさな猫はあおうと鳴き、そうしてさきほどよりは弱く両足をつっぱりました。王子は、こんどはすんなりと手の力をぬいてやり、猫はぺろりと鼻のあたまをなめ、それから王子の腕のなかからすとんとおりると走っていってしまいました。
王子が川のつめたい水で喉をうるおしていると、草をふみわける、ごくかるい足音が近づいてきました。やがて目のまえの木の影からひとりの少年が顔をだしました。とてもうつくしい少年です。このあたりにくらす子でしょうか、ひじのあたりまでまくりあげたシャツにズボンといういでたちで、金色の髪が陽の光にきらきらとかがやいています。そまつなかっこうのその少年は、けれど肌は村の子のように焼けてはおらず、七分丈のズボンからのぞく足も、まるで深い海にねむる真珠のように白くかがやいています。頬を淡紅色にそめてすこしばかり息をはずませている少年は王子をちらりと見やり、川にゆっくり近づくと川下で素足を水にひたしました。やがてかがみこむと、両手につめたい水をすくってごくごくと飲みはじめました。ふせられた睫毛が金色にかがやき、白い喉が動くのを王子は見ておりました。
この国にくらす者であれば王子の肩からかけられた上衣の紋章の意味を知らぬはずはありません。王子はけっして暴君ではありませんでしたが、村人は王族を畏れおおく思っておりましたから、王族とおなじ川から水を飲もうなどと考えるはずもありません。
ふたりはしばらくなにも言わず、おなじ川の流れを、おなじ水のつめたさを感じておりましたが、やがて少年が顔をあげ、口もとをぬぐいました。少年は王子のほうをふり向き、すこし首をかしげるようにしていましたが、片ひざをつくと深く頭をさげます。金の髪がさらさらとゆれ、まるで金の木の葉がさざめいてあたりに光が満ちるようでした。
「無礼をおわびいたします、偉大なる国の王子よ。これから私が口にします願いを、どうぞ寛大な心を持ってお聞き届けください」
その姿ににつかわしい、やわらかい金の光のような声で少年は話しはじめました。
「わたくしは、隣国との国境近くの水車小屋の息子にございます。村人の収穫した小麦を挽き、ひと袋につき椀に一杯の小麦を得てくらしております。わたくしどもの国の王はやさしく正しい方で、重い税を取ることもありません」
王子はつないであった馬にあたらしい水をやりながらつづきをうながしました。
「わたくしの国の宝である王女は、この偉大なる国の第一王子であるあなたさまとの婚礼をひかえております。――王子」
すっと少年が王子のほうへ近づいてきました。顔をあげ、うつくしいふかい緑の目が王子の目をとらえます。
「金の小鳥とも言われるわたくしの国の王女を、わたくしはなにものにも代えがたく慈しんでおります。水車小屋の息子には叶うべくもない夢をわたくしは見ております。王子、わたくしと勝負ねがいます」
つかいこまれた稽古用の剣を少年はさし出しました。王子は剣と少年をしばらく見くらべていましたが、にやりと笑って受けとると、正式な礼もなくいきなり少年にむかって鞘から抜きもしないで剣をふりかざしてきました。
ふいをつかれた少年は二、三歩よろけましたが、すぐに態勢をととのえると自分も鞘をつけたまま応戦しました。けれど打ちあううちに、はっきりと力の差があらわれました。なによりも鞘をつけたままの剣は、小柄な少年にはいくらか重すぎたのです。
少年は一歩一歩おいつめられておりました。傍らの木にほとんど背中をおしつけられるような姿勢になりながら、それでもそのみどりの目は燃えるような強い力をたたえ、頬を紅潮させて王子をにらみつけてきます。
王子はそんな少年をゆっくりとなぶるように剣をあやつります。革の鞘どうしがぶつかる鈍い音が森に響き、木のうえでは小動物がものめずらしげにふたりを見まもっております。いたぶられながらも少年の動きはしなやかさをうしなうことなく、けんめいに体勢をたてなおそうとします。しかし、王子の剣が少年の手首をかすめると、その手から剣が飛びました。少年はとっさにしゃがみこんで王子の足もとをすりぬけ、ころがるように剣に飛びつきました。もぎとるように鞘をぬきとり構えましたが、そのときには王子の剣が、少年の首にぴたりとあてられておりました。
しんとした森に、少年のあえぐような呼吸だけが聞こえます。胸をはずませ、すがりつくように剣をにぎりしめている少年と、息ひとつみだしていない黒髪の王子とでは、勝負はあきらかでした。
王子は剣の鞘で少年の首すじにふれ、それから剣を草のうえに投げすてました。そのままきびすを返すと、つないであった馬の方へゆこうとしました。
「王子――王子」
苦しげな少年の声に王子はふりむきました。金の髪をひたいにはりつかせ汗をうかべた少年は、それでも気丈に背筋をのばし、あらためて礼をして、顔をあげました。金の髪とみどりの目が、まっすぐに王子の目をみています。
「王子。わたくしは、わたくしの国の宝を、金の小鳥をだれよりも慈しんでおります。金の小鳥がうつくしく歌うことこそが」
「おまえの願いは聞かれよう」
少年のことばをさえぎって王子は言いました。
「おまえの国の金の小鳥は、わたしのまえで歌ったことがない」
それだけ言うと、王子は馬に乗って去ってしまいました。
少年は火照る頬をおさえてしばらく立っておりました。懐にかくされた銀貨が歌います。
わが国の宝、愛らしい王女よ。
いま、わたしは弟ぎみと共にあります、
きっと、その涙をかわかしてさしあげましょう。
その夜のことです。第二王子の寝室の扉を叩く、ごくひかえめな音がありました。第二王子が扉を開けると、ひとりの少年が立っておりましたので、間者かと思ってかたわらの剣を取りましたが、少年はうすいシャツとズボンを着たきりで、剣どころかなにも隠し持ってもいないと知らせるように両手をひらいて王子に向けました。そまつな身なりの少年が膝をつき、うやうやしく頭をさげるのにあわせて、やわらかそうな金の髪がさらりと背中から流れおちます。その、なつかしい方とおなじ髪の色に王子は胸を突かれました。
「顔をあげよ」
王子のことばに少年は頭をあげました。まっすぐにこちらを見る目の色も、あの方とおなじ深いみどりです。まじまじと見つめる王子のようすをうかがうように少年はだまっていましたが、やがて口をひらきました。
「無礼をおわびいたします、偉大なる国の王子よ。これから私が口にします願いを、どうぞ寛大な心を持ってお聞き届けください」
一国の王子をまえにして、ものおじもしないようすに王子はますます興味をひかれ、かたわらの椅子に腰かけてつづきをうながしました。
「わたくしは、この偉大なる国の第一王子との婚礼をひかえた王女に仕えている下女の弟にございます。姉の仕える王女はおやさしい方で、にっこり笑まれると金の光があたりに満ちるように思われるほどなのですが、婚礼が決まってからというもの、そのおやさしいお顔にうかべられるのは悲しみの色ばかりで、このままでは婚礼の日を待たずしてはかなくなってしまわれるのではと姉もわたくしも心をいためております」
第二王子は、少年の口から思いがけない方のことを聞き、目をみひらきました。椅子の足もとの毛織のじゅうたんへ少年をまねいて言いました。
「そばへ来るがよい。ここへ座って、もっと聞かせてくれ」
少年はやわらかい動作で王子のもとへやってきました。あらためてじゅうたんに膝をつき、顔をあげます。間近でみると、金の髪も目の色もやわらかそうなくちびるも、ますますあの方を思わせて、王子はつい少年にふれそうになる心をおさえるのに苦労しました。
「王女は姉にだけ、お心をうちあけてくださったのです。思う方がいらっしゃると。ご自分が嫁ぐことになっているこの国の第一王子の、その弟ぎみのほかには、添いたい方などないと。――王子」
強い声でたずねられ、王子は少年を見つめました。
「王子はわたくしの国の宝、金の小鳥とも呼ばれる王女を思ってくださいますか」
「ああ、わたしも、はじめてあの方にお会いしたときから、あの方だけを思ってくらしている」
「ではなぜ、王女は歌うことをわすれてしまった小鳥のようにしておられるのでしょう。なぜ毎晩涙を流しておいでなのでしょう」
「わたしは、あの方のお心を知らずにいた」
少年はじっと王子を見つめ、そしてまた口をひらきました。
「わたくしは王女に似ておりますか」
「――とても、よく似ている」
「わたくしの姉は、わたくしよりもっと王女に似ております。姉は王女に身代わりを申し出たのです。婚礼の日、姉が第一王子のもとへゆき、王女があなたさまのもとへ来られるようにと。わたくしには姉のたくらみが成功するとは思えません。このことが知られれば姉は死罪、いえ姉のことだけでなくわたくしの愛する国も、あなたさまの国に攻めいられほろぼされましょう。王子」
いつのまにか王子は少年のみどりの目にすいこまれるような心持になっておりました。
「王子、あなたさまだけが姉を、わたくしの国を救ってくださる力をお持ちです。あなたさまだけが王女をかなしみから救ってくださる力をお持ちです。どうぞ、王子――」
そのとき寝室の扉にノックの音がしました。少年はびくっと体をかたくしました。王子は寝台の裏に少年をいざない、身をかくさせました。
入ってきたのは第一王子でした。かれを寝室に招きいれたときに足もとをすりぬけたちいさな黒い影には、ふたりの王子は気がつきませんでした。
第一王子との話がおわり、かれが寝室を出たあとで第二王子は寝台へ呼ばわりました。なんの応えも返ってこないのをいぶかしんで第二王子が寝台の裏へまわると、そこはもぬけのからで、金の髪の少年はもうどこにもいませんでした。
それから七日後、王女が嫁ぐことになっている大国から使者がありました。第一王子が遠国へ勉学にゆくというのです。海を越えた大陸に、その名を知られた偉大な魔法使があり、そこへ招かれるという栄誉を第一王子が賜ったのです。
魔法使の修行に入る者に妻帯は許されませんので、王女には第二王子との縁談の申出があらためてありました。王女が頬をそめてうなずきましたので、婚儀はつつがなく執り行われることになりました。
姉の婚礼の宴を王子が塔のうえから見まもっていると、階段をのぼってくる足音がありました。
かれがふりむくと、そこにはつややかな黒い髪の第一王子が立っておりました。
「久しいな。水車小屋の王子。わたしと共に来るだろう?」
王子はおどろいて立ちすくんでしまいました。
「どうして――」
黒髪の王子はにやにやと笑って言いました。
「弟のようなぼんくらと一緒にされては困る」
黒髪の王子はそういうと、金の髪の王子の胸をかざる金鎖の金具についた紋章を指でしめしました。
「おまえが持ってよこした剣、柄の紋章に気づかぬと思ったか?」
金の髪の王子が答えるより早く、黒髪の王子はかれを腕のなかに抱きこみ、ふるえる金の睫毛にくちづけをほどこしました。
「おまえの父が言うには、おまえは星見の学問に向いているそうだ。わたしが学ぶ国には偉大な星見もいる。おまえはわたしと共に海を渡り、共に学び、共にこれからをすごすのだ」
おおきな腕のなかで王子は頬をそめ、おおきな手があごをもちあげるのにまかせておりました。やわらかな金の睫毛がしっとりと濡れてくるのと、やっと自由をとりもどしたくちびるから熱い吐息がこぼれるのはほぼ同時でした。
懐にかくされた銀貨が歌います。
わが国の宝、愛らしい王子よ。
わたしをここから出してくださるなら、
きっと、その涙をかわかしてさしあげますのに。
11/07/16 20:13更新 / blueblack