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読切小説
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白い朝
 朝、ダイニングで、母が紅茶を飲んでいた。
 いつも座っていた椅子にかるく腰かけている華奢なからだは、おぼえているとおりの、一年前亡くなった母のすがただ。おはよう、と声をかけてくるその低めの声も、首をかしげるしぐさも、還暦をとうにすぎたようにはとても見えないといつも言われていた、生きていたときそのままの笑顔をむけてくる母に、わたしも「おはよう」と答える。
 お気にいりのアッサム茶にミルクをたっぷり、大ぶりのマグカップを両手でささえ、湯気で眼鏡をくもらせた母は、早いわね、それとも起こしちゃった? ごめんねと笑う。
 時計を見ると、たしかにいつも起きる時間より三十分ほど早い。いいよべつにと答えて椅子をひく。テーブルにはトースターが出ていて、弟がパンを入れながら、姉さん、何枚? と聞いてくる。一枚でいいわ、まだあんまりお腹すいてないみたい。
 なぜ、わたしはふつうに話をしているのだろう。
 このところどうもからだの調子がおかしいのよといっていた母を医者につれていったのは一年とすこし――もしかしたら二年くらいまえのことだ。医者ぎらいで薬ぎらいで、じぶんから病院へゆくなどということのないひとだったから、予約をとったのも病院につれていったのもわたしだ。けれど医者にみてもらったときにはもう手遅れで、だから長く苦しむことはなかった。母はもういない。
 弟も――弟は、生まれてすぐに。早産で、それでも十時間くらいは生きていたのよと母に聞かされた、わたしが四歳のときに生まれた弟のことは記憶にほとんどない、弟か妹ができるのよと聞かされたおぼえはある、母がしばらく入院していたのもおぼえている、けれど弟の顔は見ていない、葬式のときに見せてもらったかもしれないがおぼえていない。
 けれどテーブルについている弟は、育ったらきっとこんな顔だろうと思うくらいに、ごくあたりまえの、わたしの弟の顔をしている。まゆのかたちは母親に似ている、ほおからあごにかけての線は父親そのまま、わたしにはあまり似ていないように思えるけれど、それはたしかに弟の顔だ。そこにいるのが弟だとわたしにはわかる。弟も、ねえさん、とあたりまえの声でわたしを呼ぶ。

 ふたりとも、そこにいる。

 そういえば父はいない。いつもならいちばんに起きているはずの父が、いまここにいない。けれど、それはすこしもふしぎなことではない。
 父は死んでいない。いまここにいるのは、きっと死人だけなのだ。母も、弟も。
 ――それなら、わたしは。
 わたしは死んでしまったのだろうか。わたしは死んでしまって、そうして、いまこうやって母や弟に再会しているのだろうか。
 ふと、母と目があう。わたしを見て、そうして首をふる。
 「ちがうよ、会いにきただけ」
 弟がわきから言う。いっぺんだけ、顔みてみたかったんだ。会いにきてみたかったんだ、ねえさんってどんなひとかなって。おれ知らないし。
 ねえ、かあさん。弟が母に笑いかける。母がうなずく。
 いっぺんだけ、きてみたかったんだ。顔みたかったんだ。

 母がコーヒーサーバーをよこす、それをうけとってマグにそそぐ。ちょうどわたしの好みに濃く淹れたコーヒーはふたりぶん、ついでいるところへ弟が手をのばしてくる。ねえさん、こっちにも。サーバーをわたすときに指がふれる。あたたかい手、弟の手は、その指は生きている人間のものだ。じっと顔をみる。きょとんとした顔がこちらを見かえしている。ふっとほほえむ。
 チン、とトースターが音をたてる。パンを取りだして、あ、お皿。ねえさん、皿とってくれる。弟が言う。わたしは立って食器棚のほうへゆく。この家に越してきたときに父が作ったちいさな飾り棚だ。
 食器棚に手をかけると、金具がざらついている。おやと思って手をはなし、指をすりあわせる。ほこりが指についている。そういえば、はめこんだガラスもどこかしら曇っているように見える。食卓に出ていたふきんで指をぬぐって、あらためて食器棚をあける、ふわり、つめたい空気が、ふしぎなにおいを運んでくる。こもった空気、かびくさいような。
 ならんでいる食器には、うっすらとほこりがつもっている。もう何年もつかっていないような、そんなようすで、ひんやりした空気に、わたしは皿にふれるのをためらってしまう。
 母をふりかえる。母は立ってきて食器棚をのぞきこんで、ああ、そうなのね、とつぶやく。無理があるのね、どうしても。私たちが来てしまったから、どこかで無理が出てるのねきっと。
 「これ、かあさんたちと――?」
 「わからないわ」
 でもきっと、なにか関係があるんでしょうね。わたしたちはもう、ここにいないはずの人間だから。わたしたちがここにいることで、どこかでなにかひずんでいるのでしょうね。いろんなところから、すこしずつ時間を盗んでいるのかもしれないわ。
 そう言いながら母は皿を二枚とりだす。でも、もうちょっといいでしょう?
 ほこりをはらい、流しでさっとゆすいで食卓にならべる。弟がトースターにもどしてあったパンを出して、一枚はじぶんの皿に、一枚はわたしの皿にのせてくれる。弟の手はやわらかい、指はほそくて、からだもちいさいようで、いい歳をした男にしてはすこし線が細いように思われる。ほそい指がパンにバターをぬりつける。バタナイフの柄をこちらにむけて、はい、言われてわたしは、弟に見とれていたことに気づく。ナイフをうけとって、トーストにバターをぬる。熱いトーストにバターがじんわりしみこんでいって、バターの塩気にまじって、ほんのすこし甘いようなにおいがしてくる。
 母が立ちあがってフライパンを火にかける。
 「目玉焼きがいい? それとも両面?」
 かあさん、と呼ぼうかどうしようか、すこし迷ってわたしは、ターンオーバーにして、とこたえる。弟が、おれも両面焼き、卵ふたつね、と母に言う。
 熱したフライパンに油がはねる、卵を割りいれるじゅっという音、立ちのぼる煙、卵の焼けるにおい、母の背中、となりに座っている弟、弟と目があう。弟が首をかしげて、すこし、笑ったように見えた。
 「はい、おまたせ」
 取りわけた卵は、表面はかりっとしていて、ナイフをいれると黄身がとろり、流れだしてくる。弟は卵をトーストにのせてあんぐりと大きな口をあけてかじりついている。弟の表情はどれもこれも見たこともないもので、けれどよく知っている人間のものだ。ねえさん、と無邪気によびかける声も、たしかにわたしは知っている。母にも父にも似ていて、母とも父ともちがう人間の顔、その声、そのしぐさをわたしはふつうに受けいれている。
 母がフライパンを流しにおいて、椅子にかける。わたしと弟に、おいしい? たずねてくる。うなずくと、弟が笑う。
 食べおわったら帰りましょうね。
 弟の手がとまる。口もとのパンくずを親指ではらいながら、やっぱ帰んなきゃだめなのかなあ。こどものような口調に、わたしは、いいんじゃないの、いても、と母を見やるが、母が首をふる。キッチンに立ってゆき、フライパンを洗いながら言う。
 できないことってあるのよ、どうがんばっても無理なことって。やっぱりあるのよ。
 かたり、椅子が鳴る。母が食器棚を見る。どこにどういう影響が出るのかはわからないけど、でもきっと、ずっといられるわけじゃないのよ。どうやって来られたのかわからないけど、でもきっと私たち、あなたに会いたいと思って、とても会いたいと思って無理をしているんだわ。私たちだけじゃなくて、いろんなものに無理をかけているのよ、食器だけじゃなくて、きっといろんなものに無理がかかっていて、きっと、ずっとここにはいられないのよ。きっと、とても無理なことをしているのよ、私たちも、あなたも。
 母の手がわたしにふれる。わたしの腕をかるくつかむ、その手があたたかい。
 でも、会いたかったのよ。それでも来たかったの。どうしてるかなって、知りたかったの。
 皿にこぼれた黄身が冷えて、かたまりかけている。壁の時計を見あげる。針はうごいている。秒針が、かち、かち、かち、たしかに動いているのに時間はすすんでいない、いつも起きる時間の三十分まえ、そのまま針だけが動いている。エッシャーのだまし絵のように、針がからまわりしているように、かち、かち、かち、音だけがひびく、文字盤を一周しても、時間はすすんでいない。
 会いたかったの。
 わたしも、会いたかった。
 わたしは答える。母がほほえむ。立ちあがって、ダイニングをぬけ、リビングへゆく。そのあとをついてゆく。
 床もざらざらしているような気がする。毎日みがいているはずの板張りの床が塩つぶでもこぼしたようにざらついていて、隅にはわたぼこりのようなものさえ溜まっているように見える。どこかしらくすんだ色は、窓も曇っているせいなのかもしれない。外は曇っているのだろうか。それとも晴れていて、それが家のなかからは、わたしたちがいまいるここからは、わからないだけなのだろうか。

 リビングはひんやりしている。暖炉の火はすっかり消えていて、薪が石のように見える。ソファの横に本棚、母が並んでいる一冊を手にとる。ぱらぱらとめくって、しおりがわりに挟んでいた紙きれをつまみあげて、わたしに見せる。
 これをね、燃やしてちょうだい。
 受けとったそれは、買物のリストだ。母の字で、卵だのヒューズだのといった日用品が数点しるされている。
 この日、買物のあとで医者にいって、かんたんな診察のあと専門医に予約をとるようにと紹介状を書いてもらって、買いのこしがあったために捨てずにあったリストの裏にもらった電話番号をメモして、そうして――なんとなくそのまま、ちいさな紙きれはいまも手もとにある。大切に保管していたわけではない。それこそしおりがわりにしたりして、折りまげられてまた伸ばされて、よれよれになっている、けれど電話番号の下に書きたした日付と時刻ははっきり読みとれる、それきりこの紙きれは表をかえすことなく、買いのこしたものはそのまま忘れられて、この紙だけが手にある。
 母に手わたされた紙きれを、暖炉にくべようかと思った。けれど母が、朝から火をおこすこともないでしょう、キッチンでいいわとわたしの腕をとる。
 ダイニングにもどると、弟はトーストも卵もすっかりたいらげて、わたしのぶんの皿まで重ねてくれていた。三人でキッチンへゆく。火をつかうならコンロの上か流しがいいだろう。弟がちょっとまってと流しにたって皿を洗う、洗剤はつかわずに、スポンジだけで汚れをおとす手つきはわたしも教わった、母ゆずりのものだ。てぎわがいいわねと言ってやると、へへ、と笑う。
 皿を水きり台にのせて弟が母のうしろにまわる。紙きれをみて、それ? とたずねる。
 わからないけどね、たぶんそうよ。母がこたえる。
 写真とかじゃないんだ。
 そう言って、まあ、おれの写真ってないんだよな、と笑う。笑って、見せてとのぞきこむ。けっこう字きれいなんだ、かあさんって。こっちの、これねえさんの字?
 そう、とこたえてわたしはひきだしからマッチを出す。なにかのおまけでもらった紙マッチだ。
 流しに立って、一本すってみる。オレンジ色の火がついて、すぐに白く燃えだす。ほんの短いあいだ燃えていた火は、すうっとちいさくなって、そして消える。母が紙きれをさしだす。もう一本マッチをする。ぱち、ぱちぱち、とごくちいさな音がして、マッチの火がオレンジから白にかわる。紙に火をちかづける。端に火がつく、紙をまわすと、ふわっと火がおおきくなる。手にもっていられなくなって、母が紙を流しにおとす。
 白いところがなくなるまで火は燃えつづけ、やがて小さくなる、そうしてやがて、火がきえる。
 あーあ、おわっちゃった。
 弟がつぶやく。
 でも、会えてよかった。もっといたい気もするけど、でもしょうがないよね。もともと来られるはずもなかったんだろうし。いればいるだけ帰りたくなくなるし。
 弟が笑う。わたしも笑う。会えてよかった。
 また会いたい、とは言わない。きっとそれは無理だから。きっともう、こんなふうに会うことはできないから。でも、会えてよかった。来てくれてありがとう。会いたいと思ってくれてありがとう。

 壁の時計を見る。秒針が動いている。かち、かち、かち、その音をきいていると、すうっと窓の外があかるくなる。
 時間が、すすみはじめる。
11/07/16 20:22更新 / blueblack

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