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読切小説
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やさしいライオン
 霧雨のせいで視界がかなり悪かった。窓から外を見ると、どこかの店の灯りだろうか、ほの白い光が紗がかかったようにぼんやりとうかんで、音もどこかしら遠い。湿気のせいか、じわじわとしみこんでくるような寒さに、レオは我身を抱いてちいさくふるえた。
 レオというのはディがつけてくれた名だ。ディはレオをひろってくれた。どうしていいかわからないで路地にすわりこんでいたやせっぽちのちびの子どもを、ディはひろってくれて、そうしてレオという名前をくれた。染めたのではない、うまれつきの金茶の髪がライオンみたいだからライオンのレオ。ライオンのことをレオというのだと、名前をくれたときにディがおしえてくれた。そういうディの髪は墨みたいにまっ黒で、じぶんの髪よりもよほどきれいだとはじめて会ったときにレオは思った。いまもそう思っている。
 ディはまだかえってこない。ディとレオがねぐらにしている倉庫のかたすみに古毛布をよせてレオをくるみこんで、ディはどこかへ薬を調達しに行った。ただの風邪だからと言ったのに、あてがあるからと笑ってディは行ってしまった。
 薬なんかよりディがそばにいてくれたほうがいいのに。
 熱のせいでぼうっとする頭をつめたいコンクリートの床にすりつけて、レオはふうっと猫の子みたいな息をついた。

 ディはレオよりもたぶんひとつかふたつ歳うえで、レオよりもたぶんずっと長いこと、家のない暮しをしている。はじめてあったとき、つやのある黒い髪は肩にかかるくらいにのびていて、着ているものもボタンがみっつくらいしかのこっていないシャツと、どう見てもサイズのあっていないジーンズだった。傘も持たないで家をとびだして、雨にふられてがたがたふるえていたレオをひろってくれた。倉庫につれていってくれて濡れた服をぬがせてくれて、毛布にくるんでくれて、ずっとついていてくれた。
 それからずっとレオはディといっしょにいる。
 家がなくても親がいなくても、たいていのものは手にはいった。食べものはだれかがめぐんでくれたし、ディはいろんなお店のひとと知り合いで、ときどき子どもの服や靴をもらうこともできた。
 それに、ディはときどきお金をもっていた。
 「ちゃんとかせいだ金だから」
 そう言って笑った。スリとかひったくりとか、そういう危険なお金じゃないからだいじょうぶだと言って、レオに自動販売機のジュースを買ってくれたりした。それはディとレオにとってはめったにできないぜいたくだった。いつもは公園なんかの水のみ場の水か、だれかの飲みのこしの気の抜けたコーラだった。そういうのには煙草の吸殻が入ってたりすることがあるから、いちばんいいのは缶ジュースを飲んでいるひとを見かけたら、そのひとが飲みきるかのこしていくかをじっと見ていることだった。自販機でなにか買って、その場でほしいだけ飲んであとを捨ててしまうひとはけっこういた。そんなこともディはおしえてくれた。
 「レオ」
 ディの声がして、レオはぱっと飛びおきた。とたんに頭痛がして、レオはうめいて毛布につっぷした。頭のうえでディがくすっと笑った。
 「寝てていいよ」
 ディが近づいてきて、レオのとなりにすわった。手がのびてきて、ひたいをおおう髪をはらい、それからほおにあてられた。その手がひたいにふれて、しばらく熱をはかるようにじっとしていた。
 「まだちょっと熱い」
 だいじょうぶ、と応えようとしてからだをひねったとたん、たてつづけに咳がでてレオはからだをまるめた。ディが背中をさすってくれる。ぱき、と
軽い音がしてディの手が顔のほうへきた。ゆびさきが口のなかにもぐってきて、薬のカプセルがおしこまれ、すっと手がはなれたと思ったら、こんどはジュースの缶がくちびるにつけられた。つめたくて気持よくて、レオは缶にかみつくみたいにしてジュースを飲んだ。
 「眠くなる薬が入ってるんだって。これ服んで寝ちゃえよ」
 ディからはせっけんの匂いがした。
 ディはときどきレオをおいて、お金をかせぎにゆく。おとなのひととホテルに行って仕事をしてお金をもらっている。子どもが好きなおとなもいるんだと言うので、レオがそんならじぶんも手伝うと言ってみたら、レオじゃ子どもすぎるからだめだと笑った。「子ども」と「子どもすぎる」のがどのくらいちがうものなのか、レオにはけんとうもつかないけど、それからディは仕事のことをあんまり話さなくなったので、たぶんレオにはむつかしすぎる仕事なんだろうと思う。ディがそうやってホテルに行くときは、レオは倉庫のすみで毛布にくるまって待っている。戻ってきたディは、レオをいつもよりきつく、ぎゅうっと抱いてくれる。ディからはせっけんの匂いがする。いちどそう言ってみたら、そのつぎの日ディはレオを銭湯につれていってくれた。そうしてからだじゅう洗ってくれたから、倉庫にもどって毛布にくるまったら、ふたりともおんなじ匂いがした。
 うつらうつらして、ふっと目をあけると、ディがいなかった。
 「ディ? ――どこ」
 ぼんやりとあたりを見まわすと、窓から外をながめていたディがふりかえった。手をのばしてもういちどディを呼ぶ。ディがこっちにきて、かたわらに座りこんで手をにぎってくれるのに安心して、レオはまた目をとじた。
 つぎに目をあけたとき、ディはまた薬をくれた。ジュースでカプセルを流しこみながら、レオはぎゅっとディに抱きついていた。ディがレオの手をはずそうとするのにいやいやをして、よけいにつよくディにしがみつく。
 「オギさんとこ行ってくるから。腹へってるだろ」
 オギさんはあちこちのコンビニやハンバーガーショップから期限切れで捨てられてしまうお弁当やハンバーガーをもらってきて、それをみんなにわけてくれる。
 「いい。いらない。いいから」
 ここにいて。
 ディはレオのあたまをなでてくれた。レオが眠ってしまうまで、ずっとそばについていてくれた。
 それから一回か二回薬をもらって、しばらくしてレオは起きられるようになった。オギさんのおべんとうをふたりでわけて食べているとき、ディが言った。
 「髪、のびたなあ」
 そうかなと答えてあたまを振ってみる。ぱさりと髪がおちてきて目をかくしてしまった。ディが笑って手をのばして髪をすいてくれる。
 「あとで鏡みに行こうか。ライオンのたてがみみたいだ」

 それから何日かしてすっかりよくなって、レオはディと一緒に公衆トイレに行った。
 「ほら」
とディはレオの髪をひっぱった。トイレの鏡をのぞき込んでみると、レオの髪は、はじめて会ったときのディくらいにのびていた。ちらちらする白い灯りに照らされて、レオの髪は金色に光っていた。レオは、じぶんの髪よりも光をすいとってしまうみたいなディのまっ黒の髪のほうがよっぽどかっこいいと思っていたけれど、ディがレオの髪を気にいっているみたいだったから、それならいいやと思った。
 ふたりがいる倉庫からまっすぐあるいてゆくと団地があって、その裏に児童公園がある。もともとは団地の公園だったのだけれどいまではほとんどひとが来ない。遊具が古くなってあぶないのと、何年かまえにへんなひとが公園で遊んでいた子どもを誘拐しようとして大騒ぎになったからなのだとディがおしえてくれた。そこはディとレオのお気にいりの遊び場で、ぐらぐらするジャングルジムにのぼったり、水のみ場の水をかけあったり、ぶらんこの錆くさい鎖で手を茶色にしたりする。その日もディは、見まわりもほとんどこない団地の公園につれていってくれた。風邪がなおったお祝いに粉末のジュースとプラスチックのコップをふたつ買ってくれて、水のみ場の水でとかして飲んだ。それからふたりでさんざんに遊んで、つかれてすべり台の階段のところにもたれかかっていたら、ディがぶらんこにすわってレオをひざにのせてくれた。ふたりでゆっくりぶらんこをこいでいるうちに、レオはうとうとしてしまったらしい。いつのまにかすっかりディによりかかっていたのをディはささえてくれて、ぶらんこの鎖ごとレオを抱いていてくれた。

 雨の日には外に出られないから、ふたりは倉庫でごろごろしている。いっしょに毛布にくるまって、それでも冷えてくる手や足をディはさすってくれたり、じぶんの足にはさんであたためてくれたりする。くっつきあって寝ているとき、ときどきディはふざけてレオのことをくすぐったり、首やおなかにふうっと息をふきかけたりするから、レオもディをくすぐりかえす。そうやってじゃれあっていれば、どんなに寒くても床がつめたくても気にならない。

 その日、ディはレオをおいて仕事に行ってしまった。夜むかえにくるから駅のそばで待っているようにと言われて、外が暗くなりはじめるころにレオは倉庫を出て駅にむかった。ひとりでいるときはおとなに見とがめられないように、ガード下のおそば屋さんのあたりで親を待っているふりをするようにディに言われていたから、レオはそのとおりにしていた。しばらく待っていると、むこうからディがやってきた。ディはうれしそうに手をふりまわしながら走ってきて、レオの手をとって小走りに駆けだした。
 ディがつれていってくれたのは、ちかくのホテルだった。仕事のあいてが泊まっていいとキーをおいていってくれたのだと言って、気おくれしているレオの背中をおしてディは部屋のドアをあけた。
 ひさしぶりに、照明のついた暖房のきいた部屋に入って、レオはくらくらしてしまった。ベッドには毛布だけじゃなくて、きれいな色のカバーまでかかっていた。
 「風呂はいろ、風呂」
 ディに手をひかれてバスルームへゆき、レオとディはふたりでお風呂に入った。ちょっとせまかったけれど、ついでに服もごしごし洗った。背中を流しっこして、それからディはそなえつけのシャンプーでレオのあたまを洗ってくれた。お風呂からあがるとディはレオをバスローブでくるんでくれた。バスローブはふかふかで、すそをひきずるくらい長かったけれど、なんだか映画みたいだった。
 「ここ座って」
 王様が座るみたいなアームチェアにレオを座らせて、ディはレオのあたまをバスタオルでごしごしぬぐった。それからバスタオルを床にひいた。まだしめっている髪に鼻をおしつけるみたいにして、ディはしばらくじっとしていた。
 「髪きっていい?」
 なにを言われたのかわからなくてレオが顔をあげると、ディがレオの髪をちょっと引っぱってつづけた。
 「ライオンのたてがみみたいでかっこいいけど、その前髪うっとうしいんだろ。ときどき目こすってるから。髪が目に入って痛いんじゃない?」
 そう言われてはじめて、目にかかる髪がときどきまぶたや目玉にちくちくあたるのに気がついた。ディはレオがじぶんでも気がついていないようなこともわかっている。うなずくと、ディはわきにおいてあった紙袋から、はさみと櫛をとりだした。
 「横とかうしろはそのまんまにしとく。前だけな、切るのは」
 はさみをあやつるあぶなっかしい手つきにレオはときどき首をすくめたけど、でも肘掛をぐっとにぎりしめて逃げないようにがまんした。散髪屋さんでつかうみたいなはさみとちがって、ディがつかっているのはふつうのはさみだった。櫛でていねいに髪を梳いて、左手でひとふさつまんで、レオが目をとじると、目のすぐちかくで、さくっと刃物の音がした。いっしゅんぞくりとして、肘掛をにぎった手に力が入った。
 そうっと、切りすぎないように、ディはレオの髪を切ってくれた。ときどき正面からレオの顔をみて、うーんと首をかしげるものだから、レオはちょっと心配になって鏡をみせてほしいと言ったけれど、終るまでだめとディは言ってにやっと笑う。切りすぎてへんなふうになったらどうしようと思うとどきどきした。ディがレオにおおいかぶさるようにして、さく、さくっと髪が切られて落ちてくる、その感触がくすぐったい。髪がほおや鼻におちてきてむずむずするうえに、ディも息をつめて髪を切っているみたいで、ときどきふうっと吐息がレオの耳やまつげをくすぐる。あんまりくすぐったくてレオがもがくと、ディはレオの肩をおさえて、動いたらガタガタになるぞとおどかした。
 「ちょっとまって、ちょっと、ちょっとだけ」
 ほとんど悲鳴をあげるみたいな声をレオがあげたものだからディもやっと手をとめてくれた。レオは顔に落ちていた髪をはらって、それからあたまをぶるぶるっと振って、そうしたらくすぐったいのがすこしおちついた。
 そのあとはがまんできた。ようやくディが満足したらしく、タオルでぱさぱさと顔や肩におちた髪をはらって、それからまたふたりでバスルームにいって鏡をのぞきこんだ。
 あんなに長いこと髪を切っていたのに、そんなに短くなってはいなかった。まゆげにちょうどかかるくらいで、ほんとうの散髪屋さんがやったみたいにきれいに切れていた。
 「ディ、うまいねえ」
 そう言うとディはうれしそうに笑った。

 「まさき!」
 はじめ、レオはその声がじぶんのことを呼んでいるんだなんて思いもしなかった。いつもみたいにディといっしょに児童公園であそんだ帰り、いきなりうしろから飛んできた声は、レオがおぼえているやさしい母さんの声とはぜんぜんちがって聞こえた。
 レオがふりかえるのと、レオの腕がつかまれるのと、どっちが早かったのかわからない。
 「まさき! まさき、こんなところに――」
 そのあとのことばはもう、聞こえなかった。レオはがむしゃらにその手から抜けだそうともがき、けれど抱きすくめる腕の力のほうがつよすぎた。顔がぎゅうとおとなの胸におしつけられて、ディがどこにいるのかもわからなかった。あばれようにも、おとなの手とおとなのからだにすっぽりおおいこまれて、声をあげることもできない。
 のばした手にふれた手が、すぐにひきちぎられるように離されてしまった手が、さいごにふれたディの手だったのかもしれない。

 ずっとさがしていたのよ、と母さんは言った。レオが逃げだしてからずっと、仕事もやめて毎日毎日さがしていたのよと言った。それはわかっていた。だから電車にたくさん乗って、ずっと遠くまで来たはずだったのに、見つかるなんて思っていなかった。
 母さんは怒ったりはしなかった。ただ、もうどこにも行かないでとくりかえし言って泣いた。
 母さんはレオをもうどこへもゆかせないつもりでいるみたいだった。レオの部屋はそのままになっていたけれど、部屋の外側から鍵がかかるようになっていて、夜は鍵をかけられてしまって、トイレにもゆけなくなっていた。もうすこししたら、せめて学校に行かせてもらえるようになったらと思っていたら、家庭教師が家に来るようになった。窓も五センチ以上は開かないようになってしまっていて、いっぺんでも家出をした子どもは、もう二度と家から出られないようになってしまうことをレオは知った。
 ディがじぶんのことを探してはくれないだろうかとレオは考えてみたけれど、ディがレオの住んでいる町を知っているはずがなかった。

 母さんがレオに学校にゆくことを許してくれたのは、それから長い時間がたって、中学に上がるときになってからだった。行き帰りには一年うえの従兄がかならずついていたけれど、レオにはもう、逃げだす力ものこっていなかった。だいいち、もうだれもレオをレオと呼んでくれもしない。
 従兄といっしょならいいと言われて、週末にどこかに出かけることもあったけれど、電車に乗っていても、どこがディといっしょにすごした倉庫のある町だったのかもわからなかった。
 レオは、教室や電車の窓から外を見るのが好きな子どもになっていた。

 レオが美容師になりたいと言ったとき、母さんは反対しなかった。それどころか伯父さんの友達が美容師の学校をやっているからといって、いろいろ調べてくれた。はじめはどこかの店につとめようと思っていたけれど、学校に行きはじめてしばらくして、出張美容サービスというものがあることを知った。病気になったり歳をとったりしてじぶんで美容室にゆくことができないひとのために、美容師がそのひとの家にゆくサービスだ。
 二年の勉強が終って試験を受けるとき、レオの心は決まっていた。

 いちどだけ、ディと暮した倉庫のある町に行ったことがある。出張美容のサービスが終ったあと、足がおぼえているとおりに倉庫に行ってみたけれど、あたりまえだけれど、もうそこにはだれもいなかった。毛布もなくなっていて、レオはあれから何年たったんだろうと数えかけて、やめた。成長するにつれ金茶からしっとりした濃茶にかわってしまった髪をいじりながら、レオはディの黒いつややかな髪を思いだしていた。もう顔もわすれかけているのに、髪の黒さだけはおぼえている。けれど、いつかディにまた会えても、きっとディはもうじぶんのことがわからないだろう。背ものびたし、からだつきも髪の色も声も、もうなにもかもかわってしまった。

 出張美容の仕事をはじめてしばらくして、レオは登録している訪問サービスの所長さんに勧められて、介護福祉士の資格を取ることにした。ディがいまどこでなにをしているかわからないけれど、また会えてもおたがいにおたがいのことがわかるかどうかもあやしいけれど、でも仕事の幅がひろがれば、それだけいろいろなひとと出会う機会もふえる。
 レオは、仕事と勉強のあいまをみて週に一度か、どんなにいそがしくても半月に一度はあの町へ行って、あの倉庫をおとずれるようになっていた。黒い長い髪の男性とすれちがうたびに足をとめ、ふりかえるのが癖になり、どんなに直そうとしても直らなかった。
 一度、ふたりで泊まったホテルにも行ってみた。壁の黄ばんだ安いビジネスホテルで、あのときはあんなに豪華な気分になれたバスローブもうすっぺらい生地の安物だった。きしむアームチェアに腰掛けて、レオはディを思いだそうとして、やっぱり思いだせなかった。

 そんなふうに何年かがすぎて、あるとき、いつものように倉庫のまえでぼんやりしていると、だれかがじぶんを呼ぶ声を聞いた気がした。
 あのときから、だれにも呼ばれることのなくなったはずの――。
 「レオ?」
 おとなの、男の声だ。聞きおぼえなんてない。だいいち、ディがどんな声をしていたかなんて、レオはもうおぼえていなかった。
 「レオ、だろう」
 ゆっくり、ふりむいた視線のさきに、忘れようもない、あの――黒い髪。
11/07/16 20:23更新 / blueblack

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