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連載小説
[TOP][目次]
木津の過去(青木直×おこさま木津&おまけつき)
 利洋が学校から帰ると、居間のソファで利規がうたたねしていた。ふだんは家族にも隙を見せない弟のそんな姿に、そういえば、と利洋はいやな気もちになった。
 青木さん、今日いないんだっけ。
 そっと弟のそばまでよってみる。十三歳にしては子どもっぽくて、こんなふうにしているとまだ小学生くらいにしか見えない。やわらかい頬と、色の薄い髪。

 利規は背もひくいしからだつきもきゃしゃで、いっしょにいると利洋はいつも落ちつかない気分になる。年子の兄弟なのに三つも四つも離れているように見えるのは、じぶんが生まれるときに利規の分まで栄養をよこどりしてしまったからじゃないか、と思ってしまう。父さんも母さんも大柄なほうで、利洋も同級生より頭半分大きいのに、弟ひとりだけがいつまでたってもちいさい。体力もないし顔色もわるいうえに、食もほそくてよく病気をする。
 弟自身はそんなじぶんに不満があるようにも見えなかったし、我が道をゆくというか、どこ吹く風みたいにしているから、そんな気になるのは利洋の考えすぎだと父さんも母さんも笑いとばしてしまう。利洋も、ちょっとまえまではそう思っていた。じぶんが利規のぶんまでとりあげたように感じなきゃいけないことはなにもない、と思っていた。
 あの晩までは。

 ふぞろいの前髪にかくれたまつげが男にしてはとても長い。それに、とても細い。子どものころはいまよりもっとあざやかな赤っ毛で、そのやわらかい髪は短く切るとふわふわとはねて、かといって長くのばせばひどくもつれて、木登りなんかすれば木の葉や枝にからみついて、むりに引っぱるとぷつぷつととちゅうで切れるほど弱かった。いまでも茶色いけど、あのころにくらべればずいぶんおちついた、と利洋は思う。
 子どものころの利規は、そんなふうに髪だけでなくどこもかしこも弱々しかった。歳はひとつしかちがわないのに、だから利洋はいつも弟をとくべつに気にかけていた。
 さすがに小学校の四、五年になるころには、利規もあんまりかまわれたがらなくなったから、利洋もすこし距離をおいて弟に対するようになっていった。
 いまになってそれを後悔している。いくら後悔してもたりないくらいに、悔やんでいる。じぶんが、いつまでも利規を守ってやらなきゃいけなかった、と。じぶんしか利規を守ってやれる人間はいなかったのに、と。
 もう手おくれだとわかっていながら、それでも。


 利規のからだはとても細くて、手首なんかは骨が浮いているほどだ。
 左目の下の、やっと消えかかっている痣はクラスメートに殴られたあとだと言っていた。意固地なところのある弟は、いじめられっ子というわけではないのだけれど、相手にあわせてやりすごすことをしないから、なにかと因縁をつけられやすいらしい。
 もともとよくなかった視力がそれでさらに落ちて、検眼表も見えないくらいに悪くなったけど、それくらいですんだのは運がよかった。もうすこしで目玉に当たるところだった、そうなったら片目が見えなくなったかもしれない、と医者に言われたときに、ぽつりと、そうなればよかったのに、と弟はつぶやいて、利洋をあぜんとさせた。
 「だってあいつら、悪魔の目だって言ったからさ。三対一で俺のこと押さえつけてきたんだ。いっそのこと見えなくなってりゃ、あいつらのせいにできた」

 利規の言うことはいつも利洋を不安にさせる。
 弟の目も、髪の色とおなじでずいぶん色が薄い。これも家族のなかでひとりだけ明るい茶色で、とくに左目は右より色が淡くて、子どものころ近所に住んでいたお婆さんが色のない目は悪魔の目だとかくだらないことを言いふらしたせいで、一部の大人や同じ小学校から上がってきた連中は、いまだに利規の目のことを邪眼だとか悪魔の目だとか言う。でも利洋は弟の目が好きだった。眦のきゅっとあがった猫みたいなかたちが弟の小作りな顔によく似合っていると思っていたし、まつげも目とおなじように淡い色で、弟はなんだかほんとうに猫みたいだった。猫の目が光のかげんでくるくると色をかえるみたいに、弟の目も光があたると金色に見えることがあったけど、邪眼だなんて利洋は思わなかった。父さんも母さんも宝石みたいにきれいな目だと言っていたし、悪魔の目だなんて、家族はだれも考えたこともなかった。

 そんなことを考えながらぼうっと利規を見ていると、ふいに、利規のまぶたがぴくんとゆれた。利洋の見ているまえで、まぶたがすっと開いて、明るい色の目が、まるでさっきから顔をのぞきこまれていたのをずっと知っていたというように、利洋をじっと見つめた。
 「なに見てたの」
 利洋はどきっとして、異常に寝起きのいい弟に、いいわけがましく言った。
 「こんなとこで寝こけてると風邪ひくぞ」
 「部屋、寒いんだよ」
 「ここのがもっと寒いよ」
 部屋寒いんなら毛布出してきてやるよ、と利洋は言って、無表情のままの弟から逃げるみたいに離れた。
 毛布をもってくると、弟は寝乱れた服の襟をなおしていた。さしだした毛布を受けとって、ありがと、とちいさく言って部屋にひっこんだ。
 利洋は、つめていた息をそっと吐きだした。

 夕食のあと、テレビを見ていたときに電話が鳴った。いちばん近くにいた利規が受話器をとった。
 「はい、木津です。──はい、ちょっとまって」
 利規が受話器の口をおさえて、母さん、と呼んだ。
 「青木さん」
 そのことばにびくっとした利洋のことは、だれも気づかなかった。だれも──弟以外は。
 「ああ、直、どうしたの。はい、はい──」
 のろのろとテレビに視線をもどした利洋を、弟がじっと見ていた。弟の視線を利洋は感じて、息をつめていた。

 言うな、と弟は言った。あのとき。
 父さんや母さんには言うなよ、と弟は細い腕でじぶんのからだを壁におしつけるようにして、ひくい声で言った。その額には脂汗が浮いていて、利洋は、でも、と言いかけたことばを飲みこんでしまって、それきりなにも言えなくなってしまった。

 青木さんは母さんの親戚で、利洋が小学校三年のときに家にきた。利洋の家から高校に通うことになったというそのひとは、背が高く、がっちりしていて、高校の制服がきゅうくつそうだった。
 青木さんは利洋とも利規ともよく遊んでくれていたから、大学も家から近いところを選んだと聞いて、利洋は単純に喜んだ。
 利規はなかなか青木さんになじまなかったけど、利洋はすぐなついて、青木さん青木さんと後をついてまわっていた。
 なにも、知らなかったから。そのときには。


 あのとき、なぜ夜中に目がさめたのか利洋にはわからない。いつも、いったん寝てしまうと朝まで起きないじぶんが、なぜあのときにかぎって、夜中の二時なんて時間に目がさめたのか。利洋にはわからない。
 もしあのとき目がさめなかったら、じぶんはいまでもなにも知らなかっただろうか、と利洋は考えることがある。それも、わからない。

 とにかくあのとき、利洋は夜中に目をさました。
 枕もとの時計を見ると、二時半をさしていた。夕飯に味の濃い煮つけが出たせいか、のどがかわいていた。水を飲もうと思って、弟を起こさないように気をつかいながら二段ベッドの梯子をそろそろとおりたのだが、ふと見ると下のベッドはからっぽだった。
 とおくで水音がした。トイレを流しているのかと思ったが、その音はずいぶんと長くつづいた。利規も起きてるのか、と利洋は思って、部屋の電気をつけてしばらく待ってみた。やがて水音はやんだが、弟は戻ってこなかった。どうしたんだろうと利洋は心配になって、足音を殺しながら廊下に出て──
 そこに、利規がいた。ひどく青い顔をして、びっこをひきながら壁にすがるように歩いてきていた。利洋をみとめて、足を止めた。
 なにか異様なものを感じて、利洋が弟に声をかけようとしたそのとき、弟のからだが目のまえでぐらりとかたむいて、床に膝をついたかたちでくずれこんだ。
 「おいっ」
 かけよって抱き起こした弟のからだはひどくつめたかった。利洋の腕に爪をたててきて、その痛みに利洋は顔をしかめた。
 とりあえずひきずるようにして部屋にはこびこみ、弟をベッドに座らせた。親を呼んでこようと立ち上がった利洋の腕を弟はぐっと引いた。よろけて弟にぶつかりそうになったのを、わきに手をついてからだをささえると、弟は利洋のパジャマのえりをぐっとつかんでからだのむきをかえ、利洋を壁におさえつけるようにした。その力はあまりにも弱かったけれど、同時にささやかれた、
 「言うな」
 ということばに、利洋は動けなくなった。
 利洋を壁におしつけたまま、そのからだにほとんどもたれかかるような体勢で、利規はくりかえした。
 「言うなよ」

 利洋を見あげる弟の目が光っていた。色の薄い目は、血がのぼると赤く光る。汗にぬれた髪がひたいにはりついて、きらきらと目がかがやいて利洋をにらみつけていた。よく見ると、うすい、ふだんは色のないくちびるがすこしはれたようになっていて、はしが切れて血がにじんでいた。
 弟の髪は汗でしめっていたけれど、からだからは石鹸の匂いがした。その奇妙に清潔な感触に、利洋はぞっとした。さっきの水音は、弟がシャワーをつかっていたのだということに利洋はやっと思いいたった。こんな夜中に。
 それでもまだ、利洋は目のまえのすべてをむすびつけられないでいた。ただひとつだけ、考えるよりさきに出たことばがあった。
 「青木さん、か」
 利規は答えなかった。
 しばらくして、つぶやいた。
 「──父さんや母さんには言うなよ」
 「青、木さん、が‥‥」
 そのあと、じぶんがなにを言おうとしたのか利洋にはわからなかった。そのまま、じっと弟の光る目から目をそらせないでいた。
 「‥‥っ」
 ふいに利規が痛みをこらえるようにからだを折った。はっと利洋はわれにかえって、親を呼ぼうと立ちあがった。
 「やめろ」
 「だって、利規」
 じぶんの腕をつかむ手には、利洋は動けなくなった。そのとき、じぶんは利規に押しとどめられるのを期待して立ちあがったような、そんな気がした。
 「どってことない。足──足が、ちょっと痛いだけだ」
 それを聞いて利規の足をたしかめようとした利洋の手は、弱い力でさえぎられた。
 「大丈夫だから、ちょっとこのまま‥‥うごかすな」
 そういって弟は、壁におしつけたままの利洋の腕をつかみなおして、すがるように心臓のちかくに頭をよせてきた。弱々しい呼吸はかなりつらそうだったけど、利洋はもう、親を呼びにゆくこともできないで、パジャマにじっとりしみてくる汗ばんだ頭を、そのまま明け方まで抱いていた。


 利洋のひざのなかで体をまるくして眠りこんでいた弟は、朝がくるとなにもいわないで体を離した。そのまま洗面に立ってゆくうしろ姿はわずかに足を引きずっていたけれど、それは注意しなければわからないくらいで、利洋はもういちどぞっとした。
 じぶんはいままで、なにも気づかないでいたんじゃないか。
 その考えは利洋をうちのめした。なにも気づかないで、青木さんになついていた。我関せずの弟のほうを見やることもしないで。顔色のわるいのも、ときどきつらそうにしているのも、もともと体が弱いからだと思いこんで。

 その日もそれからも、利規はまったくふだんとかわらなかった。かえって、利洋がかばおうとするのをうっとうしがるくらいだった。
 「うるさい」
 と言う弟が利洋にはわからなかった。
 「利洋、態度にモロ出るんだよ。怪しまれるだろ、あんな睨んだりしたら」
 「だっておまえ」
 「だってじゃないよ。こっちは年季いってんだから、もう慣れてんだって」
 「って、‥‥長いのか」
 「青木さんうちに来てどんくらいだっけ」
 「え──四年、かな」
 「じゃあ四年だ」
 そのことばに息をのんだ利洋に、弟は無表情のままことばをつづけた。
 「っても毎晩じゃないけど。毎晩だったら死んでるよ、いまごろ」
 「あいつ‥‥」
 「あいつじゃなくて青木さんだろ。目上だよ」
 「あ──青木さん、おまえに」
 「あのひとおかしいんだよ」
 それだけだよ、と言って利規は、たん、と足を踏みならした。ひきずっていたほうの足を。スキップするみたいに軽やかな動きだった。
 「な、慣れてんだって。ちょっとくらい痛いのはもう」
 「──じゃないだろっ」
 「じゃあなんだってんだ」
 いきなり利規が口調をかえた。それまでの、なげやりみたいな言いかたじゃなく、ひどく真剣な声でつづける。
 「じゃあ利洋、おまえ何をどうする気だよ狂人あいてに」
 息をのんだ利洋に、たたみかけるように言う。
 「なにも知らないから言えんだよそういうこと。あのひとが俺になにしてるか知らないから」
 「狂人、って」
 「気が違ってなかったらできるかよ、針さしたり煙草の火おしつけたり」
 そのことばに利洋は、事態が想像を越えていたことにやっと気づく。それでもなんとか言葉をつづけた。
 「だ、だから、やめさせ──」
 「どうやって」
 「だ、から、母さんか父さんに‥‥」
 「利洋」
 低い声だった。利規の声は聞こえないくらいに低くて、その目はおそろしく暗かった。
 「おまえ、わかってない。知らないからそういうこと言えんだよ。親になんて死んだって言えるか、あんなこと」
 「──」
 「知りもしないで言うな。俺は四年間、だれにもばれないようにって、それだけのために必死んなってやってきたんだ。あんときだっておまえが起きてこなきゃ」
 「でも」
 「おまえはなにも知らないんだ。なにも見てないくせにえらそうなこと言うな。あのひとがなにしてるか見てないくせに」
 そう言って、利規は背をむけた。背をむけたまま、つづけた。
 「いままで四年、だれも気づかなかったんだ。あと四年だ。あのひとが大学卒業するまでだ。──だれにも、口が裂けたって言うもんか」
 「利、規」
 そのとき利洋の目のまえにいたのは、もう利洋に守られていた弟ではなかった。利規は、じぶんでじぶんの身を守ろうとしていた。利洋には理解できないやりかたで、でも必死にじぶんを守ろうとしていた。
 「勝てるかよ、あのひと跡も残さないんだ」
 言いながら利規は、利洋のまえにじぶんの手をつき出した。
 「この手に針さしたってだれが信じる?」
 そう言われてあわてて利洋は弟の手をとってみた。なめらかな手のひらをかえして、手の甲をためつすがめつした。白くてやわらかな、それは幼い手だった。針の跡なんかどこにもなかった。指も一本一本、つけねから見ていって、でもなにも見つけられなかった。
 「この‥‥手、に?」
 たずねる利洋に弟は初めて笑った。
 「わかんないだろ。だれも信じやしないよ」
 そう言ってまた、笑った。
 「利規」
 そのまま笑いつづける弟に、たまらなくなって利洋は声をかけた。
 「利規、もう‥‥いい」
 もうやめろ、と言おうとしたの利洋の手を弟がつかんだ。
 「見ていけよ」
 利規の目が光っていた。左目の奥に明るい炎が見えた。
 「あのひとがどんだけおかしいか見てみればいい。俺たちなんかかなわないってこと」


 弟がなぜそんなことを言いだしたのか、利洋にはわからなかった。
 じぶんがなぜそのときうなずいたのかも、わからなかった。
 「俺が呼ばれたら、十分か十五分待ってからくるんだ。んで、ぜんぶ見てろ」


 青木さんは、もとは物置だった角部屋を使っていた。親の寝室からは離れているから気がねしなくていいだろうということであてがわれた部屋だった。


 青木さんと利規のあいだには、なにか合図があるらしかった。それから何日かしたあるとき、夕飯がおわってふたりで部屋に戻ってしばらくしてから、利規がどうでもいいことみたいに言った。
 「今晩だから」
 声だけは出すなよ、と弟は言った。まちがっても部屋に踏みこんだりしてなにもかも台なしにすんじゃないぞ、と。

 利規が部屋を出ていったのは、十二時を回ってからだった。十分たってから来いよ、と言いわたされていたから、利洋はじっと時計を見つめていた。そうして、きっちり十分して、部屋を出た。

 青木さんの部屋は戸が細く開けてあった。いつもそうしているのだろうか、それとも利規が開けておいたのだろうかと利洋は考えながら、そっとすきまから中のようすをうかがってみた。
 利規が机のかたわらに立っているのが目にはいった。シャツの前をはだけて、だるそうに、大きな机に腰をもたれさせるようにしていた。青木さんはこちらに背をむけて椅子に座って、なにか利規に話しかけていた。声はひくくて、よく聞きとれない。ときおり、青木さんの手があがって、利規の腹から腰をなでるようにしていた、その動きがやけになまなましくて、利洋はじぶんでも知らないうちに、体をぞくっとふるわせていた。
 うなだれていた利規がふと顔をあげて、首をめぐらせた。ぼんやりとあたりを見まわすようにして、そうして、ドアのこちらで息をひそめている利洋と目があった。
 利規がほんのすこし笑ったようだった。利洋はどきっとして、じぶんがうすぎたない覗きだということを思いだした。けれど、一、二歩後ずさった利洋に、弟はとがめるように目を細めて、その表情に、利洋はまた動けなくなった。
 青木さんが腰をあげて、下から利規の耳にかみつくみたいにしながら、なにかささやきこんだ。利規がかすかに首をふると、いきなり青木さんが利規の頬をはたいた。それから、いまなぐったばかりの利規の頬にくちづけた。
 片手で利規の首すじをおさえつけて、青木さんは利規の頬から口にかけて、なめまわすみたいにしていた。利規の口にキスして、それはずいぶん長くつづいた。利規の顔はかくれてしまっていたけれど、のけぞって、もがいているらしいのは見てとれた。
 青木さんの片手が机のひきだしを開けて、中をさぐった。その手のなかになにか光るものが握られていて、利洋はもうすこしで声をあげるところだった。
 それは、小型のカッターナイフだった。
 青木さんは利規の口を舐めまわしながら、片手でカッターの刃を出していた。その、ち、ち、というかすかな音と、ふたりのくちびるのふれあう音が響いてくる。やがて、刃をいっぱいに出した青木さんは、それを逆手ににぎると、いきおいよくふりあげて、
 だん!
 と、机につきたてた。その力で、ぱん、と刃が中頃で折れて、かけらが飛んだ。青木さんの手が机の上をするようにして、どうやらこまかい刃をひろったらしかった。
 その指がすっと動いて、利規の手をつかまえた。刃をつまんだまま、利規の指さきにぐっとおしつけて、爪と指のあいだに刃をさしこんだ。利規がまゆをよせて堪えている。利洋は叫びだしそうになりながらそれを見ていた。青木さんの手は、刃をひらめかせながら、爪と指先のあいだや、髪のはえぎわや、耳の裏がわといった目につきにくいところばかりを突いている。そのたびに、利規の体がこわばる。
 そうしているあいだに、もう片方の手が下のほうにおりていっていた。青木さんの座っている椅子の陰になって見えなかったけれど、それがどこにふれているのかは、利規の体がはねたので想像がついた。青木さんの肩がゆれた。利規のからだの反応を笑っているらしかった。なにかささやきながら手をうごかすたびに、利規のからだがゆらぐ。くるしそうに首をまげている。目のふちで光ったのは、きっと涙だろう。
 また青木さんがなにか利規にささやいて、利規は、青木さんの肩に両手をおいた。そうして、足を片方ずつあげて、青木さんがズボンをおろすのに協力した。
 やがて、すっかりズボンを足から抜くと、青木さんはそれをわきへほうり投げた。そうして、手がまたあやしい動きをしたらしかった。利規のからだがびくびくとふるえて、青木さんの肩におかれている手の指さきが白くなっていった。手は、わきから上へあがったり、また降りたりしていて、利規はその動きにあわせて踊っているようにも見えた。首に手をまわして顔をじぶんのほうにむけさせて、ひたいに浮いた汗と目尻ににじんだ涙に青木さんはときどきくちびるをつけていた。そのくちびるが目から頬にうつって耳をかじるようにしながら手が胸のほうまですべると、また利規ががくんと首をのけぞらせて、目を閉じてなにかを堪えている顔が見えた。
 そのとき、刃をいじっていたほうの手も、すっと利規のからだにおりた。腰をなでて前にまわったらしかった。
 「──つっ」
 はじめて利規が声をあげた。利洋はぎくっとして利規の顔を見たけれど、弟は目をきつくつむっていた。声を出したのを恥じたみたいだった。そのあと青木さんの手が動くたびに、利規のからだもゆれたけれど、それきり声はいちどもあがらなかった。ただ、ひどくつらそうだった。
 青木さんがやがて、おかしそうにくっくっと笑いながら手をぬいた。その指先は赤くそまっていた。机にカッターの刃が、ぱちりと音をたてて、机におかれた。青木さんはまたおかしそうに笑うと、赤くよごれた指を利規の口もとへもっていってなにか言った。
 利規が口をあけて指を受けいれた。じぶんの血でよごれた指を舐めろと言われたのだ、と利洋は気づいて、とたんにこみあげた吐き気に体を折った。
 それ以上は、もう見ていられなかった。口に指をつっこまれながらもじぶんを見つめている白い顔をふりきって、なんとか足音をたてないように部屋を離れてトイレにむかって、利洋は何度となく吐いた。くりかえしくりかえし、それはこみあげてきて、もう体からなにも出てこなくても、それでも胃液を吐きつづけた。


 あと四年だと利規は言った。だれにも言うな、と。とちゅうで逃げ帰った利洋を見ていたはずの弟は、そのことをとがめもしないで、ただ、あと四年、隠しとおすと言った。


 利洋は、だれにもなにも言えなかった。親にも、だれにも。ただ黙って、それからもたびたび青木さんのところに行っている弟が疲れた顔をして戻ってくるのを、ただじっと、部屋でひざをかかえて待っていた。
 青木さんのやりかたはたしかに目につきにくかった。煙草の火をおしつけるのも足の指のあいだだったり、針で突くのもほくろの上をねらったり、たしかに、言われなければ利洋だって気がつかないようなうまいやりかたで利規を責めていた。
 利規がだまっているから、だから青木さんもいい気になっているんだと利洋は何度か言おうとして、でもそんなことは利規にだってわかりきっているだろうから、けっきょくなにも言えないままでいた。

 弟が青木さんのところに行っているとき、利洋は眠れないでじっと待っていた。目もとじられなかった。目をとじると、あのときの利規のつらそうな表情と、のけぞらせたからだと、青木さんの肩をつかんでいたほそい指が思いだされた。青木さんの顔は見えなかったけれど、弟の腰をさぐる指が思いだされた。
 それは、夢にまで出てくることがあった。夢のなかで、利規はやっぱりくちびるをかみしめて、声を出さないように堪えながら冷や汗をながしていた。その体に押しピンをつきたてながら、青木さんが笑っている。笑いながら、こちらをむく。
 その顔が、利洋の顔になっていた。


 利洋は、はじめから気づいていた。じぶんが、弟に対して愛情よりもふかい独占欲を抱いていることを。青木さんへの感情に、嫌悪よりも嫉妬がまさっていたことを。弟のからだを抱いていた手をじぶんのものとして感じていたことを。弟ののけぞらせたのどにくいつきそうにしていた青木さんに対して、憎しみよりも羨望のほうが強かったことを。
 そうじゃないとじぶんにずっと言いきかせていたのに、あの晩、ふたりを見ていてはっきりわかってしまった。じぶんが、じぶんこそがほんとうは弟を青木さんがしていたみたいに扱いたかったことに。
 じぶんだったら弟を傷つけたりしない、と感じてしまったときに、それが、じぶんだったらもっとやさしく弟を扱うという意味だということに気づいてしまった。つまりは青木さんとおなじことを、青木さんよりもやさしくしてやりたい、と思っていることに気づいてしまった。
 「だれにも言うな」と弟に、あの光る目で言われたときに、ふたりきりの秘密を持っていることを喜んでしまったじぶんが、弟に膝枕をしてやりながら、だれにも言わないことで弟をじぶんのものにしたがっていることに、気づいてしまった。

 それに気づいてしまったから、だから両親にもだれにも、利洋はなにも言えなかった。


 夜中にもどってくる利規を、それからも利洋は起きて待っていた。あんまりつかれているときに、弟は利洋がそばについていて、傷をさすってやるとすこしでも眠れることがあるらしかった。


 「最近きついよな、たしかに」
 そんなふうに利規が言うことがあった。
 「はじめのうちはお医者さんごっこていどだったのに」
 わざとじぶんを挑発しようとしているんだろうかと利洋は考えたりしたけれど、それを弟に聞くのがこわくて、ただ髪をなでてやりながら、弟があれこれ言うのをじっと聞いていた。
 「でもまあ、あのひとも結局臆病者だから、ほんとにやばいことはしないもんな」
 しょせん遊びだもんな、とつぶやく利規のからだのあちこちにつけられた傷が、けっして遊びなんていうレベルじゃないことを重々知っていながら、利規はそんなふうに言った。まるで、そう言うことで傷がすこしでもかるくなるみたいに。
 「だってあのひとのはオマジナイだもん。俺の病気が治るようにって」
 「なんだよそれ」
 「あのひとめちゃ迷信ぶかいんだよ。むかし俺のこと悪魔っ子って言ってた婆さんといい勝負」
 青木さんのあれ、悪魔祓いなんだぜ、と利規は口さきだけ笑って言った。
 「いたぶっておれの目が赤くなんなかったら合格、ってさ」
 「それって」
 「ほら、むかし魔女狩りとかでさあ、水に放りこんで浮かんだら魔女で沈んだら人間とかあったじゃん、あんなだよ」
 俺の目が赤くなるのは俺の中の悪魔がなせるわざなんだと、と弟はつづけた。だから悪魔がいなくなるまで俺のこといじめんの。
 「俺のことがだいじだからやるんだって」
 そう言って、おもしろくもなさそうに笑った。まあ、あと四年だもんな。そう言って笑った。


 利規は四年がまんしないですんだ。

 それから一年とちょっとしたあるとき、青木さんは大学で知りあった女の子とホテルに行って、その女の子に、利規にするようなことをしたらしい。女の子がヒステリーの発作みたいなのをおこしてホテルじゅうが大さわぎになって、それで田舎から青木さんの両親が飛んできた。
 それっきり青木さんには会っていない。
 利規は、言っていたとおり、父さんにも母さんにも隠しとおした。


 あれきり、夜中に利規がベッドを抜けだすことはなくなった。

 あれきり、夜中に部屋に戻ってきた弟を利洋が抱きしめてやることもない。

 あれ以来、利規は利洋にふれようとしない。利洋も利規にふれない。

 利規はいくつになっても小柄できゃしゃなままで、いくつになっても髪は茶色いままで、目の色もそのままだった。
 大学に入った年に利洋は家を出て、そのつぎの年には利規も家を出た。

 もう、年に数えるほどしか会うこともない。

 それでも、ふだんはわすれていても、夜になると、ふとしたことで思いだす。
 十四歳のじぶんと十三歳の弟が、記憶の底からよみがえる。
 あのとき、すがりついてきた細い腕を。
 それを、ふりきれないまま、じっと抱いてやっていた、じぶんを。
 あのとき、ちいさな声で、「言うな」とささやいた弟を。
 「だれにも言うな」、ということばで封印された、利洋と弟だけの、あの明け方までの数時間を。


おまけのアダルト木津&木津のにーちゃん


 利洋は二年まえ、利規の同級生と結婚した。利規は、式で欧米式に花嫁の頬にキスして見せ、列席していた頭の古い親戚のどぎもを抜いた。いつのまにか、いやみにならないしぐさでそんなことができるまでに成長していた利規は、天真爛漫な花婿の弟を演じて、兄に花束をわたして、握手をした。その手を離しがたく感じたじぶんにうろたえた利洋の思いを見すかしたように、弟は、ちいさく「にいさん」とつぶやき、利洋に抱きついた。反射的に抱きかえした体はあのときのまま、細かった。兄弟間の親愛を示すにはわずかばかり長すぎて、わずかばかり情熱的にすぎる抱擁を、しかし利洋はふりきる気になれなかった。
 やがて体を離すと、利規は花嫁にむきなおり、「よろしく」、とささやいた。花嫁がハンカチを目にあてながらいくどもうなずいた。それから利規は、だれにもけちのつけようのないあでやかな笑顔をつくってみせて、
 「にいさん、しあわせに」
 と明るい色の瞳をきらめかせた。
 その金色に光る目を見た利洋は、はじめて弟の邪眼の本質にふれた気がした。


 やがて生まれた子に喘息があることがわかり、妻が結婚前から飼っていたミニウサギを手放すことになった。実家に引きとってもらおうかという算段をしていたときに、利規がなんでもないことのように言った。
 「私のところであずかりましょうか。そうすれば顔を見たくなったときにいつでも来られるでしょう」
 実家に引きとりをしぶられていた妻はその提案にとびついた。

 「名前は利規さんのお好きなように変えてくださってかまいませんから」
 そんなふうに言って、妻はミニウサギのケージを利規にゆずりわたした。その横顔はすっかり新しく生まれた子の母親になっていて、その子のためにならそれまでわが子とおなじにかわいがっていた小動物を捨てることもいとわない靭さと身勝手さを宿していた。学生時代には利規とつきあっていたという噂もあった女のそんな姿を弟はどう思ったろう。かわらない笑顔でケージを受けとる利規からは、利洋はなにも読みとれなかった。


 「いらっしゃい。──あれ、義姉さんは」
 「ちょっと遅れるらしい」
 靴を脱ぎながら言った利洋に、弟はうなずいて上着を受けとった。キッチンからはコーヒーの香りがただよってきている。

 ひとり暮らしの弟を心配して、親はときおり利洋夫妻に様子を見るように言ってきていた。料理が得手ではない弟は、ほとんど外食ですませているらしい。そんなこともあって、夫妻が訪れるときには妻が夕飯のしたくを受けもっていた。妻は、一月か二月にいちどのこの訪問を心まちにしているふしがあった。
 利洋の大学進学以来疎遠になっていた兄弟は、利洋の結婚を機に、頻繁とは言わないまでも、それなりに行き来する間柄になっていた。会って、どうでもいい会話をかわす。おたがいの感情は表に出すことなく。なごやかに歓談する、それはどこにでもある、弟と兄夫婦の関係だった。

 部屋の隅におかれているケージの中でミニウサギがかすかに鳴いた。
 「なにか飲みますか」
 弟のことばにうなずく。
 キッチンで氷を割る音が聞こえてきた。やがて、弟が片手にマグカップと、もう片手に水割りの入ったグラスとをもってきた。グラスを利洋に差しだし、ソファに浅く腰かける。

 利規はあまり酒をのまない。弱いわけではないし、すすめられればつきあうが、じぶんから飲もうという欲求のうすいところがある。それは酒にかぎらず、衣食住のすべてにおいて、周りにあわせることはしても、じぶんから求めることのほとんどない質だった。
 利洋は、ふと立ちあがってケージに近よった。きちんと手入れされているのだろう、毛づやのいい小動物が、じっとこちらを見ている。
 「ああ、気をつけてください。その子、噛み癖がありますから」
 「そうなのか」
 たしかに兎というのは神経質な動物だし、家で飼っていたころ、妻の妊娠中などあまりかまってやれなかったな、と利洋は思いおこす。褐色の毛皮にくるまれたちいさな体は、後肢でしきりに耳のあたりをかきむしっている。
 それを見るともなしにながめていた利洋に、弟は言った。

 「その子に名前をつけたんです。ナオ、って」
 一瞬、なにを言われたのかわからなかった。
 「素直の直と書く」
 「利規」
 「似ていると思いませんか」

 素直の直と書く、その名をもつ人物を、忘れるはずがなかった。かれらは上の名で呼んでいたけれど。
 「臆病な子ですけど、慣れればかわいいもんですね」
 「──おまえ」

 直。青木直。それでは、弟はこの城で、いまも青木とともに暮らしているのか。

 弟の目が、いま利洋の喉をとおっていったばかりの水割りとほとんど同じ色の目が、きらりと光った。
11/07/13 18:40更新 / blueblack
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