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連載小説
[TOP][目次]
二 詩篇(しへん) 九八 四−八
  全地よかれに向いて歓(よろこ)ばしき声をあげよ
  声を放ちて喜びうたえ、讃(ほ)めうたえ
  琴をもてかれをほめうたえ 琴の音と歌の声をもてせよ


 「がらがらだな」
 「寒いからな」

 冬の朝ともなると、寮内集会の出席率はかなり落ちる。祈祷会と呼ばれるそれは、朝の祈りのあと聖書を読み、皆で賛美歌を一曲か二曲歌うだけのものだ。日曜の礼拝もそうだが、完全に自由参加で、その朝、みぎわが入っていったとき、室内には十五、六人くらいしか集まっていなかった。女子の数が男子を上まわっている。
 女の子のほうがこういうことには熱心なのかもしれないな、などと考えながらみぎわは、あいている座布団をみつけて引きよせ、聖書を開く。

 「ラッパと角笛をふきならし、王なるかれ、の‥‥御前(みまえ)に、よろこばしき声をあげよ」

 壇上で聖書を朗読しているのは、尾上(おのえ)というクラスメートだった。語句に慣れていないのか、つっかえつっかえ読みあげている。

 「海とそのなかに満つるもの、世界と世界にすむものと、鳴り――鳴り‥‥」

 語尾が自信なげにゆれたのへ、みぎわのとなりから声がかかる。

 「なりどよむべし」
 「あ、ありがとうございます」

 真っ赤になって尾上は礼をのべ、あらためて読みすすむ。

 「――鳴り響(どよ)むべし。大水はその手をうち、もろもろの山は‥‥相共に、かれの、御前によろこび歌うべし。――以上です」

 尾上は聖書を閉じると、かるく咳ばらいをして、では、黙祷を――とつづける。

 そのとき、おなじ声がぽつり、

 「十五、六の子には読めないか」

 と、つぶやいた。
 そっととなりをぬすみ見ると、髪のやけに長い女生徒が、おもしろくもなさそうな顔をして聖書に視線をおとしていた。色が白く、からだつきはほっそりしていて、でも背はもしかするとみぎわより高いかもしれない。つくりのちいさい顔は、くちびるだけがふっくらしていて、全体にただよう冷たそうなふんいきをわずかながらやわらげている。
 見おぼえのない生徒だった。
 みぎわの視線に気づいたか、女生徒は、すいとみぎわのほうを見た。
 おそろしく黒い目だった。

 「口語訳を使えばいいんだ」
 「え――ああ、たしかに」

 聖書のことを言っているのだと気づき、みぎわはささやき声で答える。

 「新共同訳だって、言われているほど悪くない」
 「でも聖書も、訳によってはぜんぜんちがう本みたいになって」

 文語訳もきらいじゃないけど、と続けるみぎわに頓着するふうもなく、
 「すくなくとも、まえのうちに一度は読んでおくべきだな」

 恥をかきたくなければ、と女生徒は言う。
 つまらなそうな口調だった。

 「次に、賛美歌五一〇番」

 壇上のうわずった声に、あわてて賛美歌を開く。室の片隅の、古びて音色のくぐもったオルガンが、しずんだ旋律をかなではじめる。


  まぼろしの影を追いて
  うき世にさまよいて、
  うつろう花にさそわれゆく
  汝が身のはかなさ


 一番を歌いおえたところで、となりの女生徒がふとみぎわを見た。なんだろうと首をかしげると、なにもなかったように、また前をむく。
 なんだか、みょうな感じがした。

 賛美歌のあと、みんなで主の祈りを一斉に言う。
 みぎわはこの、みんなで声をあわせるのがにがてだ。幼稚園などで食事のまえに「いただきます」
と声をそろえるのも、ひとりだけどうしても言えなかった。
 だから、主の祈りのときにも、みぎわはいつもただ黙っている。

 じっと、聞くともなしに祈りを聞いていて、ふと、なにか、ごくかすかな違和感がみぎわをとらえる。
 視線を、感じる。
 となりを見ると、女生徒が、やはり黙ったまま、こちらを見ていた。
 耐えがたくなって、みぎわはたずねる。

 「――なにか」
 「かんざき・みぎわ」
 「え?」

 いきなり名を呼ばれ、おどろいてまじまじと女生徒の顔をみる。女生徒は、さっと視線をはずして祈りの文句をとなえている他の学生に唱和する。

 「我らに罪を犯すものを我らが許すごとく、我らの罪をも許し給え」

 一息に言うと、みぎわに向きなおり、
 「――我らに仇をなすものを我らが討ち取るごとく、かれらも――」
 「?」
 「神崎みぎわ。おかしな名だ」
 「なに――」

 「本日の集会を終わります」

 言いかえそうとしたときに尾上が告げた。女生徒がかるく眉をあげる。みぎわになにも言わせる隙を見せず、そのくせやけにおっくうそうに立ちあがったところへ、オルガンを弾いていた人物が小走りに駆けよってきた。
 かるくうなずき、ふたりは連れだって室を出ていった。

 「ちょっと――」
 「みぎわ」

 追おうとしたところへ、うしろから真琴に声をかけられる。
 ふりかえると尾上が立っていた。

 尾上は頭をかきながら、
 「さっきはありがとう」
 と言った。
 「え、なにが」
 「漢字おしえてくれてさ」
 「ってそれ、おれじゃない」
 となりの、と答えるみぎわに、
 「なに言ってんだよ」
 と真琴が言う。

 「みぎわの声だったよ」

*** *** ***

 鞄を取りに部屋へもどると、窓が三センチほど開いていて、雪がふりこんでいた。
 「うわ、だれか気づけよ」
 真琴があわてて窓にかけよる。
 窓に手をかけ、それからみぎわのほうを向く。
 「凍ってる」
 みぎわもあわてて窓にとびつく。
 「冗談」
 「木月は」
 「もう出た」
 「お湯かければ」
 「馬鹿、んなことしたらこんどは開かなくなる」

 降りこんでくる雪が、窓のあたりに積もっているのが部屋の気温で解け、それがさらに外からの風で凍りついていて、ちょっとやそっとでは動いてくれない。

 「ドライバーでこじるか」
 「それより殴れ、とりあえずこの氷の塊」
 「窓割れんぜ」
 「その程度で割れるか」

 桟を殴りつけ、ふたりがかりで氷をくだく。
 さんざんに奮闘し、ようやっと窓を閉めたころには、ふたりとも手がすっかりかじかんでいた。

 「完全遅刻だな」
 うう、と真琴が手をすりあわせながらうなる。
 「板敷でよかった」
 床をふきながらみぎわは言う。
 「いいよてきとうに新聞紙敷いとけば」
 それより授業、と真琴が鞄をあごでしゃくる。
 「先行っていいよ」
 これなんとかするから、とみぎわはため息をつく。床もだが、床に積んであった雑誌にまで雪が積もっていた。
 それに、濡れた上着も着替えたい。
 じゃお先、と真琴が出ていったあと、タオルを何枚か犠牲にして、床と雑誌を拭き、ついでにいらない雑誌をよりわけた。

 ひと仕事おわって、上着を脱いでかるく叩く。
 上着とタオルを洗濯物をまとめている布のバッグに入れたとき――

 ――窓のほうから、ごおん、と重い音がした。
 あれ、と顔をあげると、またわずかに隙間があいている。掛け金がばかになっているのだろうか。
 あわてて窓にかけより、もういちど力をこめて、ぴしりと閉める。が、手を離すと、風と震動でゆれはじめる。つっかい棒になるものはないかとあたりを見まわし、竹の定規をあてがってみる。ちょうど長さもぴったりで、やれやれと胸をなでおろす。
 「あああ厄日だ」
 ぶつぶつ言いながら、椅子に倒れこむように座り、鞄を蹴飛ばす。これから学校なんて――いま、何時だ、いったい。
 机の時計を見やり、そして――。

 ノックの音で我にかえった。
 「お前ら、まだいるのか」
 舎監の声がする。
 時計を見ると、三十分たっていた。いつのまに、と思いながら立ちあがり、
 「はい」
 答えてドアを開ける。舎監がみぎわを見て、目をまるくする。
 「なんだ、怪我でもしたか」
 「あー‥‥いや、窓が開いてたみたいで、雪が降りこんでたんで、あと始末していたんです」
 いぶかしげな表情に、みぎわは説明する。が、舎監は、
 「じゃなくて――」
 と、みぎわの左手を指さす。つられて、左手を見ると、
 手の甲から肘にかけて、赤くよごれていた。

 それは、血だった。

*** *** ***

 舎監には、掃除をしているときにガラスででも切ったのだろうと言っておいた。手当をするから傷を見せろと言うのを、
 「これくらい舐めて治しますよ」
 と断ったのは、みぎわ自身が、体のどこにも痛みがなく、怪我をした覚えもまったくなかったからで――けれど。
 そうすると、それは、その血は、一体どこでついたのか。

 そうしてもうひとつ。
 顔のまわりにまといつくような匂い。
 鉄錆のような、それは、
 みぎわの口のなかにのこる、
 血の、味だった。
11/07/14 00:35更新 / blueblack
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