三 祈祷(きとう)
三時間目がはじまるまえに、それでもみぎわはなんとか教室にたどりついた。
あのあと鏡を見ると、ほほのあたりにもなすりつけたような血のあとがのこっていたが、深くは考えないことにして、さっさとシャワーで洗い流した。きっとどこかで知らないうちに怪我でもしたのだろう。
「おはようさん」
「おはよ」
「みぎわ、窓どうだった」
「なんか閉まりわるいんで定規かってきた。おまえのCDも救出してやったんだぞ」
ありがたく思え、と真琴をにらむ。
「にしても、たてつけわるいよなあ」
「ボロなんだって」
けらけらっと真琴が笑いとばす。中等部からずっとここの寮に住んでいる真琴は、このくらいのことにはなれっこになっているらしい。
「寒いよ」
「これからもっと寒くなるんだって」
ぼやいているところへ、クラスメートが、
「あ、ねえ神崎くん聞いた?」
と走りよってきた。
「聞いたってなにを」
きょとんとしているみぎわに、真琴は、
「これ、いま来たとこだから」
「あれ、なんかあったの」
「寮の窓がぶっこわれて」
「大掃除。時期的にはちょうどだけど――じゃなくて」
ふくれているみぎわに気づいて、くっくっと真琴が笑う。
「いやまあご苦労さまでした」
「それはともかく、なに聞いたって?」
「こんどのページェント、みぎわくん天使だってよ」
*** *** ***
学校では、十二月の第一日曜日の夜にページェント、すなわち降誕劇が行われる。イエス・キリストの誕生までの物語を劇で演じるそれは、学校全体のイベントであり、毎年趣向をこらしていた――今年は、たしかミュージカル仕立という話だった。
「聞いてませんよそれ、じょうだんじゃない」
「聞いてないのはみんなもいっしょ」
「配役はぎりぎりまでトップシークレットなんだから」
「真琴、助けろよっ」
放課後、音楽室に拉致されたみぎわは、この配役を決定したという真琴の双児の兄と姉、高良流佳(たから るか)と波奈(はな)にはさまれ、悲鳴をあげていた。
流佳がおっとりと、
「ぴったりだと思うんだけど、みぎわくん顔がおさないから」
と、ぐさっとくることを言えば、波奈は波奈で、芝居がかった調子で両手を胸のまえで組んだ嘆願のポーズをとってみせる。真琴はといえば、そんなみぎわをにやにやと見ているばかりだ。
「みぎわくんの声にほれたのよ。天使のころがったような」
「天使はころがりませんっ」
「でもみぎわくん、つついてころがしたいくらいかわいいわよ」
「真琴、こいつらを止めろっ」
「むり。うち年功序列がぜったいだから」
そう言う真琴は、この状況をおもしろがっているとしか思えない。
「歌なんてうたえません」
「うそお、みぎわくん礼拝のとき、とってもきれいなボーイソプラノで歌ってたじゃない。あれにほれたのよ私たち」
「あんなもん裏声ですっ」
「裏声でもなんでも、天使にぴったりなんだって」
ほら、と流佳が衣装をひろげてみせる。シースルーというのか、むこうがほとんどすけて見える生地に、あろうことか天使の輪にはクリスマスカラーの豆電球がとりつけられ、羽根は七色に塗りわけられている。
「おれの裸は全校生徒に披露できるような上等なもんじゃありません」
「下着はつけてもいいのよ」
「ぱんつ一丁なんてごめんです」
「じゃあオールヌード?」
そのほうがよっぽどはずかしいと思うけど、やりたいんなら脚本アレンジしようか、との波奈のせりふにみぎわはめまいがしてきた。
「‥‥どういう劇ですか」
「うん、ちょっとね、モダンな感じでいこうって言ってたんだ。去年が古典劇調だったから。『ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』って劇、知ってるかな」
ああいう感じにしたいんだけど、という流佳に、波奈が、あれに「コットンパッチ・ゴスペル」をかけあわせたみたいにしたいのよ、と、ふたりがかりでみぎわの知らないタイトルを並べたてる。
「意味がちがう‥‥」
この兄妹になにを言ってもむだだ、そう思ったみぎわは、矛先を変えようと、
「真琴、おまえがやれ」
「やめてよみぎわくん、鶏ガラ天使なんてそれこそごめんだわ。みぎわくんくらいに適度にやーらかそうな子がいいのよ」
「それ以前に真琴も役あるんだよ」
「なんの役ですか」
「三人の博士・その二」
ああ、それなら、と真琴がうなずくのへ、みぎわは裏切者、とののしりの声をあげる。そんなようすを、周りはおもしろそうに遠まきにしている。
「往生際わるいわねみぎわくん――あ」
音楽室の扉ががらりと開いたのへ、ふりかえった波奈が相手をみとめて、
「御大のお出ましだわ」
「いらっしゃい」
「二年一組、真荘幸と羽根木翠(はねぎ みどり)、連行してまいりました」
え、とみぎわがふりむく。
男子生徒に連れられて、幸ちゃんともうひとり、音楽室に入ってきた。
今朝、集会でみぎわのとなりに座っていた、あの女生徒だった。
波奈が手をふる。
「ちょうどよかった。衣装できてるわよ」
「サイズあわせないと――なんだ、神崎くんもいたの」
「いたの。幸からも言ってやってよ。坊や、天使いやだってごねてんの」
「うってつけだと思うんだけど、ぼくらは。彼氏、歌うのがいやみたいなんだけど」
「どうして。神崎くん声きれいじゃない」
幸ちゃんはふわりと言う。まるっきり、なんでもないことのように。
「そこらの女の子よりよっぽど澄んだ声なのにねえ」
流佳がまた、かちんとくることを言う。みぎわの表情に気づいて、幸ちゃんはふっとほほえむ。
「あたしは、いいと思うな。神崎くんの天使だったら、べたべたしてなくて」
そうそう、透明感があるのよね、と波奈。
「真荘先輩はなんの役なんですか」
「まだ聞いてないの」
真琴が、みぎわが聞きたかったことを聞いてくれ、幸ちゃんはそれにくったくなく答える。
「台詞の多くないのがいいんだけど」
「お二方にはねえ、主役をやってもらおうと思ったの」
「え」
「真荘さんがマリアで羽根木さんがヨゼフ」
「ああ、なるほど」
「はまり役でしょ」
「たしかに逆は考えにくいわね」
流佳がすとんと言ったのへ、居あわせた者たちはうんうんとうなずく。これも寝耳に水だったらしい幸ちゃんは、となりの女生徒を見やっている。女生徒のほうの表情は、幸ちゃんの陰になってみぎわにはわからない。
幸ちゃんがたずねる。
「ちょっとまってよ、台詞は」
「そりゃありますよ」
「お産シーンもね」
「がんばってね」
う、と幸ちゃんがつまる。が、ややあって、しょうがないかな、と頭をかく。となりに問うように、
「翠(みどり)、ヨゼフだって」
「男役だな」
翠と呼ばれた女生徒が言うのを、流佳がさらりと受ける。
「美男美女カップルに見えるでしょう、真荘さんと羽根木さんなら」
「ねえみぎわくん」
「え、あ。はい」
いきなり波奈に水をむけられ、みぎわの声は裏がえる。
たしかに、幸ちゃんとその女生徒――翠がならんでいるところは、カップルに見えるかどうかはさておき、対等な人間ふたりのバランス、という意味で、幸ちゃんがみぎわといっしょにいるより、さまになっている。それは認めないわけにはゆかなかった。
いちど、ふたりで出かけたときに、店のガラスにうつったすがたが、姉に連れられているかお供している弟にしか見えなくてくやしい思いをした、そんなことをみぎわは思い出していた。みぎわと幸ちゃんがいまならんでいても、恋人どころか、友人にも見えない。それはみぎわにもよくわかっていた。
幸ちゃんは、どこにいてもじぶんの存在をそこにとけこませることがうまい。邪魔にならず、かといってかすまない。そこにみぎわは惹かれたのだけれど。
そのとなりにいるじぶんが、匹敵できていない、ということにも気づきはじめている。
翠というその女生徒は、その点、幸ちゃんよりはるかに存在感がある。印象的というのか、周りの視線を、そう意識させないままにじぶんに集める引力のようなものがどこかにある。
そういう意味で、そんなふたりが一緒にいると、たしかに対等な人間がふたりいて、それにふたりとも顔だちがおとなびているから、演出によっては堂々たる美男美女に見えるだろう。劇の中心にはもってこいだな、と、これは個人的な感情とはべつのところで、みぎわはそう思った。
だがすぐに、それならじぶんはどうなんだろう、と考えてみぎわはなさけなくなった。幸ちゃんのとなりにいても、へろへろと飛びまわるだけの天使だなんて。
「神崎みぎわ」
いきなりフルネームを呼ばれ、みぎわの思考は打ちきられる。
翠がじっとこちらを見ていた。
「――なにか」
が、それには答えず、翠は流佳に、
「神崎みぎわは天使役を受けたと聞いている」
と、言う。あれ、と幸ちゃんが、
「翠、神崎くんのこと知ってるの」
「神崎みぎわが天使役を受けるなら、私もどんな役でもやると言ってある」
「え」
「なにそれ」
「おいみぎわ、いつ密約かわしてんだ」
「え、知らない、知らない知りません」
翠のせりふに、周りはおもしろがってからかいにかかる。みぎわはわけもわからず顔のまえで手をふる。そんなことはおかまいなしに、翠は重ねて言う。
「神崎みぎわが天使をやらないなら、私もおりる。はじめからそういう約束だ」
流佳がそれを受けて、
「わかってますよ。だからいまこうやってみぎわくんのこと、口説いてるんだから。ねえみぎわくん。かわいい女の子じきじきのリクエスト、聞いてやってもいいんじゃない」
「って知りませんてば」
「あ、冷たい」
「だって聞いてませんよ」
「ほんっと往生際わるいなあ」
「あとは神崎みぎわ次第だ」
そう言うと、翠は音楽室から出てゆこうとする。波奈があわてて、
「まってまって、衣装だけでも」
ひきとめようとするが、
「私にも、ほかにすることがある。実のない会話にそうつきあっていられない」
あっさり、腕をほどかれる。
「タイミングあやまったわね」
そのまま出ていってしまった相手に、波奈が笑う。
「なんか、芝居がかったひと‥‥」
みぎわが誰にともなくつぶやいたのが聞こえたのか、そお? と幸ちゃんは首をかしげる。
「翠、いつもあんな感じだけど」
「口のききかたが‥‥ぶっきらぼうというか」
「あれだけ美人だと、いろいろと事情もあるんでしょ」
波奈が言う。心なしか、翠の出ていったあとをうっとりと見送っているようだ。たしかにきれいなひとだったけど。
「それはともかく。みぎわくん。ふたりぶんの役が君にかかっているんだけど」
流佳のせりふに、そうそうと波奈もあいづちをうつ。
「だから聞いていませんて」
「もう聞いたでしょ。状況はそういうことなの。なにがどうでもイエスと言ってもらいますから」
波奈が衣装を片手にみぎわにせまってくる。みぎわはぶんぶんと首を振る。
そのとき、
ばたばたっと廊下を走ってくる足音がして、音楽室の扉がいきおいよく開いた。
「至急解散の命令でちゃった。せんせ方から。とっとと帰れって」
「なにが。なんで」
「なんか、一年の子が階段とこで倒れてて――」
走りこんできた生徒が、みだれた息をととのえながら言う。
「例の、通り魔。首んとこ、切られてたって」
あのあと鏡を見ると、ほほのあたりにもなすりつけたような血のあとがのこっていたが、深くは考えないことにして、さっさとシャワーで洗い流した。きっとどこかで知らないうちに怪我でもしたのだろう。
「おはようさん」
「おはよ」
「みぎわ、窓どうだった」
「なんか閉まりわるいんで定規かってきた。おまえのCDも救出してやったんだぞ」
ありがたく思え、と真琴をにらむ。
「にしても、たてつけわるいよなあ」
「ボロなんだって」
けらけらっと真琴が笑いとばす。中等部からずっとここの寮に住んでいる真琴は、このくらいのことにはなれっこになっているらしい。
「寒いよ」
「これからもっと寒くなるんだって」
ぼやいているところへ、クラスメートが、
「あ、ねえ神崎くん聞いた?」
と走りよってきた。
「聞いたってなにを」
きょとんとしているみぎわに、真琴は、
「これ、いま来たとこだから」
「あれ、なんかあったの」
「寮の窓がぶっこわれて」
「大掃除。時期的にはちょうどだけど――じゃなくて」
ふくれているみぎわに気づいて、くっくっと真琴が笑う。
「いやまあご苦労さまでした」
「それはともかく、なに聞いたって?」
「こんどのページェント、みぎわくん天使だってよ」
*** *** ***
学校では、十二月の第一日曜日の夜にページェント、すなわち降誕劇が行われる。イエス・キリストの誕生までの物語を劇で演じるそれは、学校全体のイベントであり、毎年趣向をこらしていた――今年は、たしかミュージカル仕立という話だった。
「聞いてませんよそれ、じょうだんじゃない」
「聞いてないのはみんなもいっしょ」
「配役はぎりぎりまでトップシークレットなんだから」
「真琴、助けろよっ」
放課後、音楽室に拉致されたみぎわは、この配役を決定したという真琴の双児の兄と姉、高良流佳(たから るか)と波奈(はな)にはさまれ、悲鳴をあげていた。
流佳がおっとりと、
「ぴったりだと思うんだけど、みぎわくん顔がおさないから」
と、ぐさっとくることを言えば、波奈は波奈で、芝居がかった調子で両手を胸のまえで組んだ嘆願のポーズをとってみせる。真琴はといえば、そんなみぎわをにやにやと見ているばかりだ。
「みぎわくんの声にほれたのよ。天使のころがったような」
「天使はころがりませんっ」
「でもみぎわくん、つついてころがしたいくらいかわいいわよ」
「真琴、こいつらを止めろっ」
「むり。うち年功序列がぜったいだから」
そう言う真琴は、この状況をおもしろがっているとしか思えない。
「歌なんてうたえません」
「うそお、みぎわくん礼拝のとき、とってもきれいなボーイソプラノで歌ってたじゃない。あれにほれたのよ私たち」
「あんなもん裏声ですっ」
「裏声でもなんでも、天使にぴったりなんだって」
ほら、と流佳が衣装をひろげてみせる。シースルーというのか、むこうがほとんどすけて見える生地に、あろうことか天使の輪にはクリスマスカラーの豆電球がとりつけられ、羽根は七色に塗りわけられている。
「おれの裸は全校生徒に披露できるような上等なもんじゃありません」
「下着はつけてもいいのよ」
「ぱんつ一丁なんてごめんです」
「じゃあオールヌード?」
そのほうがよっぽどはずかしいと思うけど、やりたいんなら脚本アレンジしようか、との波奈のせりふにみぎわはめまいがしてきた。
「‥‥どういう劇ですか」
「うん、ちょっとね、モダンな感じでいこうって言ってたんだ。去年が古典劇調だったから。『ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』って劇、知ってるかな」
ああいう感じにしたいんだけど、という流佳に、波奈が、あれに「コットンパッチ・ゴスペル」をかけあわせたみたいにしたいのよ、と、ふたりがかりでみぎわの知らないタイトルを並べたてる。
「意味がちがう‥‥」
この兄妹になにを言ってもむだだ、そう思ったみぎわは、矛先を変えようと、
「真琴、おまえがやれ」
「やめてよみぎわくん、鶏ガラ天使なんてそれこそごめんだわ。みぎわくんくらいに適度にやーらかそうな子がいいのよ」
「それ以前に真琴も役あるんだよ」
「なんの役ですか」
「三人の博士・その二」
ああ、それなら、と真琴がうなずくのへ、みぎわは裏切者、とののしりの声をあげる。そんなようすを、周りはおもしろそうに遠まきにしている。
「往生際わるいわねみぎわくん――あ」
音楽室の扉ががらりと開いたのへ、ふりかえった波奈が相手をみとめて、
「御大のお出ましだわ」
「いらっしゃい」
「二年一組、真荘幸と羽根木翠(はねぎ みどり)、連行してまいりました」
え、とみぎわがふりむく。
男子生徒に連れられて、幸ちゃんともうひとり、音楽室に入ってきた。
今朝、集会でみぎわのとなりに座っていた、あの女生徒だった。
波奈が手をふる。
「ちょうどよかった。衣装できてるわよ」
「サイズあわせないと――なんだ、神崎くんもいたの」
「いたの。幸からも言ってやってよ。坊や、天使いやだってごねてんの」
「うってつけだと思うんだけど、ぼくらは。彼氏、歌うのがいやみたいなんだけど」
「どうして。神崎くん声きれいじゃない」
幸ちゃんはふわりと言う。まるっきり、なんでもないことのように。
「そこらの女の子よりよっぽど澄んだ声なのにねえ」
流佳がまた、かちんとくることを言う。みぎわの表情に気づいて、幸ちゃんはふっとほほえむ。
「あたしは、いいと思うな。神崎くんの天使だったら、べたべたしてなくて」
そうそう、透明感があるのよね、と波奈。
「真荘先輩はなんの役なんですか」
「まだ聞いてないの」
真琴が、みぎわが聞きたかったことを聞いてくれ、幸ちゃんはそれにくったくなく答える。
「台詞の多くないのがいいんだけど」
「お二方にはねえ、主役をやってもらおうと思ったの」
「え」
「真荘さんがマリアで羽根木さんがヨゼフ」
「ああ、なるほど」
「はまり役でしょ」
「たしかに逆は考えにくいわね」
流佳がすとんと言ったのへ、居あわせた者たちはうんうんとうなずく。これも寝耳に水だったらしい幸ちゃんは、となりの女生徒を見やっている。女生徒のほうの表情は、幸ちゃんの陰になってみぎわにはわからない。
幸ちゃんがたずねる。
「ちょっとまってよ、台詞は」
「そりゃありますよ」
「お産シーンもね」
「がんばってね」
う、と幸ちゃんがつまる。が、ややあって、しょうがないかな、と頭をかく。となりに問うように、
「翠(みどり)、ヨゼフだって」
「男役だな」
翠と呼ばれた女生徒が言うのを、流佳がさらりと受ける。
「美男美女カップルに見えるでしょう、真荘さんと羽根木さんなら」
「ねえみぎわくん」
「え、あ。はい」
いきなり波奈に水をむけられ、みぎわの声は裏がえる。
たしかに、幸ちゃんとその女生徒――翠がならんでいるところは、カップルに見えるかどうかはさておき、対等な人間ふたりのバランス、という意味で、幸ちゃんがみぎわといっしょにいるより、さまになっている。それは認めないわけにはゆかなかった。
いちど、ふたりで出かけたときに、店のガラスにうつったすがたが、姉に連れられているかお供している弟にしか見えなくてくやしい思いをした、そんなことをみぎわは思い出していた。みぎわと幸ちゃんがいまならんでいても、恋人どころか、友人にも見えない。それはみぎわにもよくわかっていた。
幸ちゃんは、どこにいてもじぶんの存在をそこにとけこませることがうまい。邪魔にならず、かといってかすまない。そこにみぎわは惹かれたのだけれど。
そのとなりにいるじぶんが、匹敵できていない、ということにも気づきはじめている。
翠というその女生徒は、その点、幸ちゃんよりはるかに存在感がある。印象的というのか、周りの視線を、そう意識させないままにじぶんに集める引力のようなものがどこかにある。
そういう意味で、そんなふたりが一緒にいると、たしかに対等な人間がふたりいて、それにふたりとも顔だちがおとなびているから、演出によっては堂々たる美男美女に見えるだろう。劇の中心にはもってこいだな、と、これは個人的な感情とはべつのところで、みぎわはそう思った。
だがすぐに、それならじぶんはどうなんだろう、と考えてみぎわはなさけなくなった。幸ちゃんのとなりにいても、へろへろと飛びまわるだけの天使だなんて。
「神崎みぎわ」
いきなりフルネームを呼ばれ、みぎわの思考は打ちきられる。
翠がじっとこちらを見ていた。
「――なにか」
が、それには答えず、翠は流佳に、
「神崎みぎわは天使役を受けたと聞いている」
と、言う。あれ、と幸ちゃんが、
「翠、神崎くんのこと知ってるの」
「神崎みぎわが天使役を受けるなら、私もどんな役でもやると言ってある」
「え」
「なにそれ」
「おいみぎわ、いつ密約かわしてんだ」
「え、知らない、知らない知りません」
翠のせりふに、周りはおもしろがってからかいにかかる。みぎわはわけもわからず顔のまえで手をふる。そんなことはおかまいなしに、翠は重ねて言う。
「神崎みぎわが天使をやらないなら、私もおりる。はじめからそういう約束だ」
流佳がそれを受けて、
「わかってますよ。だからいまこうやってみぎわくんのこと、口説いてるんだから。ねえみぎわくん。かわいい女の子じきじきのリクエスト、聞いてやってもいいんじゃない」
「って知りませんてば」
「あ、冷たい」
「だって聞いてませんよ」
「ほんっと往生際わるいなあ」
「あとは神崎みぎわ次第だ」
そう言うと、翠は音楽室から出てゆこうとする。波奈があわてて、
「まってまって、衣装だけでも」
ひきとめようとするが、
「私にも、ほかにすることがある。実のない会話にそうつきあっていられない」
あっさり、腕をほどかれる。
「タイミングあやまったわね」
そのまま出ていってしまった相手に、波奈が笑う。
「なんか、芝居がかったひと‥‥」
みぎわが誰にともなくつぶやいたのが聞こえたのか、そお? と幸ちゃんは首をかしげる。
「翠、いつもあんな感じだけど」
「口のききかたが‥‥ぶっきらぼうというか」
「あれだけ美人だと、いろいろと事情もあるんでしょ」
波奈が言う。心なしか、翠の出ていったあとをうっとりと見送っているようだ。たしかにきれいなひとだったけど。
「それはともかく。みぎわくん。ふたりぶんの役が君にかかっているんだけど」
流佳のせりふに、そうそうと波奈もあいづちをうつ。
「だから聞いていませんて」
「もう聞いたでしょ。状況はそういうことなの。なにがどうでもイエスと言ってもらいますから」
波奈が衣装を片手にみぎわにせまってくる。みぎわはぶんぶんと首を振る。
そのとき、
ばたばたっと廊下を走ってくる足音がして、音楽室の扉がいきおいよく開いた。
「至急解散の命令でちゃった。せんせ方から。とっとと帰れって」
「なにが。なんで」
「なんか、一年の子が階段とこで倒れてて――」
走りこんできた生徒が、みだれた息をととのえながら言う。
「例の、通り魔。首んとこ、切られてたって」
11/07/14 00:37更新 / blueblack
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