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五 交読文(こうどくぶん) 詩篇 二三

  主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ
  主我をみどりの野にふさせ、いこいの水辺(みぎわ)にともないたもう


 「みぎわ。おいみぎわ」

 体をゆすぶられて目をあけると、心配そうな真琴の顔が間近にあった。
 輪郭がぼんやりしている。枕もとの時計に目をやると、夜中、三時すぎだった。  「あ‥‥」
 「うなされてたぞお前」
 電気がつけられる。こちらをのぞきこんでいる真琴のとなりで、木月もねむたげに目をしばたかせながら立っている。体を起こそうとするが、なぜか力がはいらない。
 ふたりが背中をささえてくれる。

 「わるい、起こしちゃったか」
 「いいよ。大丈夫かみぎわ、舎監呼ぶか」
 「いや。――顔洗ってくる」
 言いおいて、室を出る。

 うす暗い廊下を、音をたてないようにゆっくり歩く。
 夜中でも煌々とあかりの灯っている洗面所にたどりついて、みぎわはほっと息をつく。

 なにかいやな夢を見ていたような気がする。が、どんな夢だったかは思いだせない。
 それよりも気になることがあった。真琴にはもちろん言えなかった。
 鏡のなかの顔は、あおざめている。
 洗面台に手をついて、口のなかの苦い唾をはく。

 思ったとおり、
 血がまじっていた。

 わかっていたことのような気がする。
 それは、  蛍光灯のもとで、じぶんの両手を見たときに。
 その 爪のあいだに、かわいた黒っぽいものがこびりついているのを見たときに。

 つめたい水を出して手を洗う。口をすすぐ。顔も、洗う。
 なにもかも、洗い流してしまいたかった。
 なにも考えたくなかった。

*** *** ***

 そのつぎの日は、最悪だった。
 目覚まし時計に起こされ、かけ布団をはごうとして――それだけの力も出なかった。

 「どうしたみぎわ、やっぱり風邪か」
 真琴がのぞきこんでくる。
 「――」
 こたえようとしたのだが、声も出なくなっていた。
 「熱あんじゃないのか」
 「顔色なくなってんぞ。今日は学校休めよ、俺らから言っとくから」
 「雪もひどいしな。今日あたりおまえ外に出たら遭難しかねん」
 「こんなときくらい休校してほしいよな」
 口々に言って室を出たあと、みぎわはひとりとり残された。

 体が重い。頭はぼうっとして、考えがまとまらない。
 おそるおそる、手を布団から出して、そうして、血のついていないことに、ほっとする。そんなじぶんがこっけいで、笑いたいのにその力も出ない。
 ゆうべすっかり洗いながしたはずの血のにおいが、体中にまつわっているような気がして、重苦しい頭を枕にのせたまま、みぎわは泣きたくなってきた。

 どこにも怪我をしていないのに、いつのまにか血がついていて、どこでつけたかの記憶がない。テレビなんかでよくある記憶喪失とか二重人格とか、そういうやつなんだろうか。だとすれば、医者に行かなければいけないのだろうか。
 みぎわは医者が好きではない。母親さんが病院も医者もだいきらいで、幼いころからよほどのことがなければ医者にかからなかったせいもあって、あまり慣れていない、なにか、おそろしい。とくに他人に目や喉をのぞきこまれたりしていると、ほんのすこし手がすべったら、と考えただけで、わきの下に汗がにじんでくる。そんな関係のないことを考えていないと、どうでもいいことで頭をいっぱいにしていないと――叫び出してしまいそうだった。

 「みぎわ。食事――寝てんのか」
 ドアがあいて、真琴が盆を持って入ってきた。みそ汁のにおい。
 「食えるか」
 声が近づく。首をふる。
 胸やけをおこしそうだった。
 「んじゃ置いとくから。薬も」

 応急処置をほどこしただけの窓が風にかたかたと鳴る。その音が耳障りで、なかなか眠れない。電気を消した部屋は、外が曇っているせいもあって、ぽかんと暗い。

 いつのまにか、眠ってしまったようだった。
 ごおん、と、風の音がする。窓のあたりから、冷たい風がひとすじ、吹きこんできているような気がする。
 ふっと目をあけたとき、目のまえが暗かった。あれ、と瞬きをいくどかすると、いつもどおりの部屋のなか、ぼんやりとものの輪郭がもどってくる。

 のどがかわいた。
 体が熱い。重く、苦しい。
 ふらついた体をささえ、起きあがる。時計は一時をさしていた。
 なんとか着替え、上着をはおる。体がべたついていて、シャワーをあびるかなにかしたかったが、ただ立っているだけでもつらかった。とりあえず、洗面所へ向かう。

 洗面所で、顔を洗う。水を一杯飲んだが、喉はまだかわいていた。もう一杯飲む。
 ちがう。
 なにかが、体のなかで叫んでいた。
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