そうですねとその学者はつぶやくように言って、深い色の目をふせた。そのまましばらくそうしていて、なにか考えているようだった。かれも、あえてそのさきをうながすことはしないで、ただじっと学者の組んだ指を見ていた。
かれは黙っているのが苦にならないたちだった。学者もそうらしかった。時間のながれる、ただそれだけが感じられるしずけさは、けっして居心地のわるいものではなかった。
やがて学者が顔をあげた。目の色とおなじ、深い、それでいてやわらかい色の髪が、伸びるにまかせたまっすぐな髪がするりと後ろにながれる動きを、かれはじっと見ていた。かるく首をかしげるようにして、学者は口をひらいた。
−そうですね、はっきりとは言えませんが‥‥あなたが、さいごのひとりかもしれませんね。
それは答えではなかった。かれは問いかけたわけではなく、だから学者のことばはかれのことばへの返事ではなかった。それは、かれの感慨ともいえないつぶやきに反応して生まれた学者のつぶやきだった。おたがいに、おたがいの内からこぼれ出たつぶやきが、からまりあいなにも生みだすことなく身をよせあうようにとけあって空気に消えてゆくのを、だまったまま感じていた。
かれが曾祖父から学んだ、かれと曾祖父のほかには使う人間のいないことばで、学者はかれにささやいた。私の調べた範囲では、あなたのほかにはもうだれも見つけられませんでした。もちろん、あなたのことも予想外でしたから、あなたのようなひとがほかにいないとは言いきれませんが。そう低い声でささやいた。
そのやわらかい低い学者の声を、かれはきらいではなかった。長く学問をしてきたその声は、子どもの声のようにやわらかいままだった。かれのように仕事をし家庭を持ち、ときには酒場で議論にふけり、ときには子どもをどなりつけてきたような、使いこんだ深みも張りもなかったが、またかれの声のように、疲れたときにしわがれたりかすれたりすることもなかった。それはまったくいつもかわらない、やわらかい低い声だった。
かれは学者の声がきらいではなかった。学者の、低くやわらかい声がきらいではなかった。その声で、かれのことばを使うのを聞いているのがきらいではなかった。ときどき口ごもって、よりふさわしい言いまわしをさがすときの、ああ、とかうう、とかいう意味のない音でさえ、学者の喉からはやわらかいやさしい声になってかれの耳にとどいていた。
さいごのひとり、というつぶやきを口のなかでのみこみ、そうだろうかとかれは考えた。曾祖父が死んで、たしかに周りにはそのことばを使う人間はまったくいなくなっていた。それまでも、かれは曾祖父以外にそのことばを使う人間を知らなかったし、だから学者の言うのはまったく正しいのかもしれなかった。けれど世界は広い。かれの訪れたことのない土地のほうが、訪れたことのある土地よりはるかに多い。かれの曾祖父のように、まわりにそのことばを使う人間のないところで、だれにも知られないまま暮らしている人間がまったくいないとは言いきれまい。
じぶんが、まったくさいごのひとりだという実感はかれにはなかった。
けれどまた、どこかでそういうふうに暮らしている人間がいたとして、それをかれが知るすべのないことにも、かれは気づいていた。もしその人間が山をひとつ越えた村にいたとして、それをかれが知ることはないだろう。その人間も、かれを知ることがないように。そうやってほろびてゆくのだろうとかれは考えた。いや、すでにほろんでいるようなものかもしれない。だれにも使われることのないことばを知っている人間がいまここにひとりいようと、もうひとり、どこかかれの知らないところにいようと、おたがいにそのことばを使うことのないままであれば、それは、ないとおなじなのだろう。
その考えはとりたてていやなものではなかった。ことばにもそんなふうにはじまりがあっておわりがある、それはしごくあたりまえのことのようにかれには思われた。
−なにを考えているのですか。
ふわりとひびいた学者のことばにかれは顔をあげた。
それはかれのことばだった。学者の口からすべり出たのは、おわりゆこうとしているそのことばだった。
ああ、とかれは思った。
−すくなくともおまえがいる。
学者は目を見ひらいて、かれを見つめた。かれはくりかえした。
−おまえがいるからな、おれはさいごのひとりってわけじゃない。
かれのことばに学者はふっと考えこむ目をして、そうして、しばらくだまったままでいた。やがて顔をあげて、なるほどそういう考えかたもできなくはありませんねとつぶやいた。
その目をかれはじっと見ていた。
学者がかれの住む村にやってきたのは、秋のおわるころだった。噂のほうが学者自身よ
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