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蔦の絡まる

 吾輩は蔦である。名は既にある、いやありすぎる。「蔦さん」だの「お化けツタ」だの、甚だしくは「アイビーちゃん」などと呼ぶ輩までいる。話が逸れたが、どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でさわさわと揺れていたことだけは記憶している。吾輩はここではじめて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは奥方という人間の中でいちばん獰悪な種族であったそうだ。この奥方というのはガーデニングとやらいう趣味を持ち合わせていて、時々我々をつかまえて仲間から引き離しては自分の庭を飾り立て、好みに合わねば間引いたり、運悪く枯れれば打ち捨てるという話である。しかしその当時はなんという考えもなかったからべつだん恐ろしいとも思わなかった。ただ体の周りを掘られ裸にされたような恐ろしさを感じたかと思うと彼女の手に掴まれてスーと持ち上げられ、細かい根がブツリブツリと切れた時なんだかいきなり体が軽くなったような、フワフワした心もとない感じがあったばかりである。手のひらの上で少し落ちついて奥方の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始めであろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一葉脈をもって装飾されるべきはずの顔が白く塗りたてられて下の方に赤く一筋ここを見よとばかりに一文字に引かれたさまはまるで薬局の看板だ。その後蔦に会うことはなかったがこんな片輪には恐らく一度も出くわすことはなかろうと自信をもって言える。のみならずこの奥方という人間は吾輩を新しい住処に植え替えてまもなく死んでしまった。どうも悲しくてじつに弱った。これが人間に起こる流行病というものであることをようやくこのごろ知った。

 「蔦さんや、いい天気だねえ」
 奥方の夫である野々宮老が私に話しかける。老はどうも吾輩を女扱いしている節が見受けられる。先だってどこぞの不動産屋が、建物が傷んで資産価値が下がるからと吾輩を取り除けるよう老に進言したところ、老はとんでもないと首を振り、かわいそうじゃありませんか、こんなにきれいで可愛らしいというのにと言ってのけて不動産屋を呆れさせたのであった。もしや吾輩を奥方と同一視しているのではないかと感ずることがある。そういえば奥方の名は「桂」であった。「かつら」と「かずら」、似ていると言えなくもないところが悩ましいが、吾輩は女ではないので老には一度言って聞かせねばなるまい。嗚呼しかし老には吾輩の言葉は通じないのであった。益々もって悩ましい。
 しかしそれはそれとして、日向ぼっこは人にとっても蔦にとっても健全な成長と心身の健康にとって欠かせないものであるからして、今日も今日とて老の傍らで御天道様に向かって全てをさらけ出し、青い葉をより青くして春まだき寒さの中に光を謳う吾輩である。

 「いいご身分だな」
 苦々しげに吐き捨てる声に振り向くより先に声が続ける。
 「おれの体の隅々までお前の触れなかった場所はないってのに、おれが身動き取れないのをいいことに、お前は好き勝手にあちこちでつまみ食いしてやがって。爺まで守備範囲かよ」
 彼はどうもこのところ僻み根性が表に出てきていて、話していても気疲れする。吾輩がなぜあの蜜月の頃のように彼ひとりを見彼ひとりを愛し、彼ひとりをやさしく包み込んで吾輩のかいなに眠らせてやることをしなくなったのか考えてみれば分かりそうなものだが、いかんせん彼には己を顧みるという心持はまったくないようである。嘆かわしい事だが、そもそも我々の関係というものは奥方にお膳立てされたようなもので、奥方がなくなって久しい今となっては彼への思いが、薄れこそしないものの、幾分変質しているのは否定しようのない事実である。彼も、新築時代は真白な肌が初々しく、吾輩に征服する悦びを存分に与えてくれたものであったが、つややかであった肌のあちこちにひび割れが生じ、風雪に曝されて濃灰色になってしまったモルタルのそこかしこが崩落し、往年の美少年や今いずこといった風体である。
 もっとも彼の見場がどう変化しようと、それだけをもって吾輩の心が彼から離れてしまったと決め付けるのは些か早計に過ぎるというものである。吾輩が何よりも心寂しく思うのは、彼の体が年月と共にキシキシギイギイと軋むようになるにつれ、彼の心根までもが軋みを上げているように感じられることに他ならない。
 「最近お前が色目使ってやがる二階の角部屋の若造な、あの部屋の天井の羽目板ずらして鼠の大群頭からぶっかけてやろうか」
 例えば斯様なひねこびた言葉は、若い頃の彼であれば唇にのぼすことがなかったと自信を持って言える。むしろあの頃の彼は吾輩があちらこちらを訪ねて周り見聞を広めるのをまったく喜んでさえいたのである。野々宮老の旧友の家までも足を、もとい蔦先を伸ばしたこともあった。
 悲しいことであるが、
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