佐和は部屋にはいるとまずステレオをつける。たいていは入れたままになっているCDを、なによりさきにつける。それから鞄をおいて上着を脱いで、そうしてステレオのちかく、定位地をみつけてすわりこむ。足をなげだして腕をだらりとおろして、首をわずかにかしげる。右耳を、スピーカーが縒りだす音の細いすじみちを、いちばんたしかにとらえられるところにもってゆく。
音量は、ほとんど聴こえないくらいに落とすのがいい。そのほうがいろんなかすかな音をいっしょけんめい聴こうとするぶん、音がひとつひとつたしかに耳にはいってくるような気がする。鼓膜をかすめるかけらをひとつひとつひろいあつめて、息つぎの、ほんとうはマイクがひろっていないかもしれない音までも聞きのがさないくらいにずっと音だけを追いかけるのがいい。追いつめないようにじっくり、くりかえしくりかえし聴くうちに、歌手のくせがわかってくる、息つぎのタイミングや、ことばをうたうときのくちびるや舌のかたちが見えてくる、どの音をつよく、よわく発音するかが聞こえてくる気がする。
それから、佐和はCDにあわせてうたう。ちいさな、じぶんにしか聞こえない声でうたう。知らない国のことばを、じぶんの耳にはいってくるとおりにくりかえす。意味をなさない音のつらなりを、意味をなさないまま、ながれこんでくる感情をそのままくりかえす。
知らないことばは、知らないままくりかえし、くりかえすうちにひとつの旋律になる。旋律はくりかえすうちにひとつの曲になる。
知らないことばで歌われる曲は、いつまでたってもなんの思いもつたえることがない。
そこが、好きだ。
佐和はみんなに愛されていた。それは佐和も知っていた。とうさんもかあさんもじいちゃんもばあちゃんも、だれも佐和をぶったりどなりつけたり家から追いだしたりしなかった。それどころか、佐和のために食事をつくり、服がちいさくなれば新しいのを買ってくれ、学校へもやってくれた。
佐和もみんなのことが好きだった。なんとかしてうまくやってゆきたかった。どの家にゆくことがきまっても、いちどだってごねたり泣いたりしなかった。
どの家でだって、いちどだって、わがままを言ったりまえの家とくらべたりしなかった。
どの家でだって、佐和は泣いたことがなかった。
どこでだってどんなことがあったって、いちどだって泣いておとなをふり向かせたりしなかった。
佐和は体の痛みにつよい。痛みを感じないわけではなくて、ただ、痛いことが苦痛にむすびつかない。
佐和はしょっちゅう、そこらのものにつまづいてころんだり、机のかどにぶつけたり、カッターを取りおとして足を傷つけたりする。佐和のからだには、じぶんの不注意でつけた切り傷や痣がいくつもついている。さきのが癒えないうちにつぎの傷をつくる。おおきい傷もちいさい傷も、いくつもおなじように腕や足にのこっている。
ちょっとのことでは消毒したりばんそうこうを貼ったりしないので、血が服をよごすこともある。そんなとき、佐和は服をぬがないで、布地にしみ出てくる血を見ていることがある。ずくん、ずくんとうずく痛みにあわせて、じわりとひろがる血を見ていることがある。
傷はたしかに痛いのに、痛いままにしておく佐和のことを、生存本能だか防衛本能だかがこわれていると言ったのがクラスメートだったかだれだったか、佐和はおぼえていない。マゾヒスト、とわけもわからず言ったのがだれだったか、佐和は気にしてもいない。気をひくために無意識のうちに注意力が散漫になっているのではないかと自信なげに教師が言ったのを、とうさんは失礼だと怒っていたけれど、佐和はそれならそれでだれかがそばにいるときにやるのに、と思っただけだった。
怪我をするのはひとりでいるときがおおい。じぶんひとりしかいないときに馬鹿なことをして、だれかが帰ってくるころにはそんなことがあったのも忘れていることがおおい。ひとがいると気をはっていられるのが、ひとりでいるとそれができなくなることがおおい。
佐和は、じぶんにしか聞こえない声でうたう。CDからながれる声にあわせて、愛の歌だか別れの歌だか知らないまま、耳のとらえる旋律をそのままにくりかえす。
佐和は、じぶんのためにだけ、うたう。ほかにだれもいない家の、ほかにだれもいない部屋で、じぶんの耳だけが、やっととらえるくらいの音量で、うたう。
佐和を抱きしめるひとはもういない。十四の女の子を、足もとのおぼつかない子どもをあやすように抱くひとはいない。それどころか、おなじ部屋にいても、ソファの両端に、なるべく体をふれさせないくらいに気をつかって浅くこしかけている。とうさんも、にいさんも。
だから佐和は食事がおわると、すぐに部屋にこもる。じぶんのほかにだれもいない部屋で、じぶんを
[3]
次へ
[7]
TOP [9]
目次[0]
投票 [*]
感想