猫を散歩させていた。
それは、まったく散歩としか呼びようのない光景だった。ゆっくりと歩く青年の前を、まっしろな猫が軽い足取りで歩いている。生後半年かせいぜい七、八か月といったところの若い猫は、ときどき後ろを振りかえり主人がついてきているのを確かめながら歩いている。白い足はすっかり氷ったアスファルトをあたため、銀の首輪がなければ野良とも見える自由さで、しかし野良にはありえない毛並みの良さを見せつけるように主人に歩調を合わせ、引き綱もないのに一定の距離を保っている。二十代なかばに見える細身の青年の、よく慣れた犬を散歩させているような悠然とした足取りと、青年に全幅の信頼を寄せる猫の、その調和のとれた一対の姿に、小原は思わずシャッターを切っていた。
この町を訪れるのははじめてだった。明け方から小半時ほども降っていた雪は路面からはその姿を消していたが、木々や土塀の上にはうっすらと色を残していた。本格的に降るときはこんなもんじゃないですよと笑う女将に曖昧な笑みを返して、近所をぶらつこうと宿を出たのだ。風のない、白くまぶしい雲にいろどられた明るい昼下がり。
デジタルカメラのたてる、ごく軽い電子音に、猫は自分の姿に目をとめた人間がいたことに気づいたようで、ぴたりと歩みを止め小原を見あげ、ついで主人を見、ふたりを見くらべるように目を細めた。つづいて青年も小原を見る。
「冬花火を見に来られたんですか? 西藤さんのお知り合い?」
喫茶店で、メニューと水を持ってきてくれた四十がらみのウエイトレスに話しかけられた。首をかしげた小原にかわって、西藤が笑顔で答える。
「ええ、こちら写真家さんなんですよ。ねえ小原さん」
彫のふかい日本人ばなれした顔だちの彼女が、感心したように目を見ひらくのへ軽く会釈してメニューを受けとる。
彼女が行ってしまったあとで、西藤が説明してくれた。
「いまの時期に来るひとって、ほとんどが冬花火が目当てなんですよ」
花火と言えば夏のイメージがありますけど、冬の花火もきれいなんですよ、と水を飲みながら言う西藤の視線が窓のむこうをじっと見ている。
「続煙火って大きな花火屋さん――花火会社があって」
五年ほどまえから、その続煙火が中心になって冬の花火大会が催されているのだという。
「最近代替わりしたんですけど、そこの四代目がいろいろと新しいことをやってるんです。冬花火も四代目の街興し案で」
「それは、おもしろそうだね。わかっていればカメラを持ってきたのに」
「え、でも小原さん」
西藤が目を細めるようにして小原の手の中のデジタルカメラを見る。苦笑して、教えてやる。
「これはおもちゃだよ。花火を撮るのには向いてない」
「デジカメじゃ撮れないんですか」
「そんなことはないよ。撮れるものもある。これは無理だけどね」
花火は光だからね。光の動く道筋を撮影するのは人や風景を撮るのとはいろいろと違うんだよと説明すると、わかったようなわからないような微妙な表情でうなずく。
写真家といったのは西原のちゃめっ気だろう。小原はプロではないし仕事でこの街を訪れたのでもない。今回も、温泉街でのんびりするつもりでいたので機材などろくに持ってこなかった。デジタルカメラは恋人の持ちものだった。
ほんとうは、ふたりで来るはずだった。
年上の恋人。おたがいに忙しく、めったに会えない。それでもスケジュールをやりくりして、なんとか休みを取って、おたがいに知り合いのいないこの街で落ちあう約束をしていた。予定を立てない旅先でばったり会ったふりをして、ふたりで街をぶらぶらして、てきとうな宿に泊ろうと話しあっていたのだ。
旅行のために荷物をまとめていた小原の耳に、それはいきなり飛びこんできた。つけたままになっていたテレビから流れてきた恋人の名前は、若いアナウンサーが棒読みするニュースのなかで、三名の被害者のうちひとりとして、ごく機械的に読みあげられた。
コンビニに薬物中毒者が押し入り、出刃を振り回したのだ。腕を切り付けられた女性をかばった彼は、犯人にめった刺しにされ、病院に搬送されてまもなく息を引き取った。そして葬式に出ることすらかなわない、家族でもない小原に遺されたのは、彼が小原のマンションに忘れていったこのデジタルカメラだけだったから、小原は予定通りこの街に来たのだ。彼の遺品とともに。
「御注文、おきまりですか」
ウエイトレスの声に小原が顔をあげると、西藤が気づかわしげにこちらを見ていた。あらためてメニューに目を走らせ、注文をすませる。そうして西藤に視線を戻す。
似ていないのに似ている。恋人とは顔だちも、年齢も、声すらも似ていないのに、目のまえにいる青年は小原のもっとも愛したひとを思いださせる。だからつい、シャッターを押して
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