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鰓呼吸の少女
『鰓呼吸の少女』
もらったパンフレットの表紙にもなってい
たその絵は、入ってすぐ左の壁にかかってい
た。それほど大きくはない。青い背景にとけ
こむように、後ろを向いた姿が描かれている。
背景とおなじ色の髪を持った少女の細い体は
向こう側が透けて見えて、身にまとっている
薄い布が、まるで鰭のようにその手足に揺れ
ている。
この女の子、夜な夜な絵から抜けだして館
内を歩きまわるんだよ。
茅野さんのふざけ半分の科白を思いだして、
清香はふとほほ笑んだ。たしかに、そんなふ
うに言われたら信じてみたくなるような、そ
れは奇妙な引力をもった絵だった。
ひととおり絵を見てまわってから、清香は
『鰓呼吸の少女』の前に戻ってきた。肩から
かけられた布が青い水にゆられてめくれあがっ
て、白い背中が斜めに半分、露になっている。
その背中に、ぱっくりと裂け目が入っている。
わずかに開くそこは──そこが、少女の鰓だ。
水の中で呼吸をするための鰓だ。
「清香ちゃん」
声をかけられて清香がふり向くと、茅野さ
んが立っていた。
「お招きありがとうございます」
「いえいえ、来てくれてありがとう」
茅野さんはそう言って、紹介したい人がい
るんだけど、ちょっといい? と首を傾げた。
清香が頷くと、受付の近くにいた年配の女性
を目で呼んだ。
「こちらがモデルさん?」
やわらかく尋ねられて清香がぺこりとおじ
ぎをすると、その人は、ああ、こういう目を
しているのね、と言ってふわりと笑った。
「茅野さん意地悪ね、後ろ姿しか描かない
で。こんなに可愛らしいお嬢さんなのに」
せめて顔だけでもこっちを見ているポーズ
にすればよかったのに、とその人が言うのへ、
茅野さんは、違いますよ、彼女の学校がこう
いうの禁止してるんですよと笑った。
「ありがとうございます」
その人が向こうにいってしまってから、清
香は茅野さんに言った。
「とってもきれいに描いてくださって。‥‥
背中、も」
うん、と茅野さんは頷いて、清香の肩を抱
いてくれた。その背に残る傷を、茅野さんは
描いてくれた。
「清香ちゃんのこれはね、鰓なんだよ」
これからはもっと楽に呼吸ができるように
なるよ、と茅野さんは言った。清香が事故か
ら目覚めたときに見たのと、おなじ目の色だっ
た。
もう苦しまなくていいよ、もう何もかも終
わったから。これからは、もっと楽に呼吸が
できるようになるよ。
清香は、絵の前で、深く、ゆっくり息をつ
いた。
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